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言葉言葉言葉―憎悪なき人とは何者か 

憎惡は、何も生み出さないとは、巷で良く聞く言葉である。
私は、この言葉に同意できない。何故ならば、憎惡はその人を行動に驅立てずには居られない力を發してゐる事は、火を見るよりも明らかである。生命といふものを活動を通した力の發生と見做せば、憎惡の産出す力はまさに厖大と言へよう。

生命の活動の觀點から見れば、むしろ只今の巷の意見に容易く同意する總ての人は、生命力自體そのものが衰頽してゐるのではないかと考へてゐる。生命力が衰へて、何事も億劫になり怠惰になつた人の、あさはかな見榮なのではないかと、私は考へてゐるのである。

怠惰な人間は、如何に生きるべきかといふ事を只管囘避することに沒頭するしかない。しかし人間は自惚れだけは捨てることが出來ない厄介な生物なので、自らの行爲を正當化しようと常に目論むのである。それが只今だと價値相對主義とか虚無主義とかを持出して、好い氣になつて恰好附けてゐる次第なのではないかと考へてゐるのである。

さうした生命力が缺けてゐる人が、世間の同意を得たいといふ要求だけは貪欲で、強さを求めようとして徒黨を組むことに沒頭してゐるのである。私が物心ついてもう數十年にもなる。その中で如何に徒黨を組むことに沒頭する人の多さを見るにつけ、私は日本では個々人の力は、相當に衰弱したのだと思はずにはゐられないのである。

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言葉言葉言葉 (戰爭と反省) 

久方振りにこちらを更新する。
どうもSNSといふのは、過去の記事を取り出すのが難しいと分つたので、
こちらに徒然にまとめた内容を不定期に更新することにする。

私は福田恆存の「端的に言へば、大東亞戰爭は罪惡ではなく、失敗だつたのである。(中略)若しあの戰爭を惡とする綺麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、それを善に高めようとする居直りを生じるであらふ。」に同意してゐる。

先の戰爭の罪惡視といふものは、日本では、先づ初めに自らは先に罪惡を認めた、優れたる先達者として、他の人々を説教をする人士が横行した。そして、その反撥である居直りも、善に與する吾身として、他の人々に説教をする人士となつた。この兩者の動きは、表看板以外は良く似てゐる。

戰爭を罪惡と見なければならないと言ふ總ての人は、自分以外の赤の他人に罪惡なるものを見出し、罪惡を裁く裁判屋に成下るのである。そして罪惡の認定に從はない人間を、まるで水戸黄門の印籠に平伏しない役者の如く、平伏しないのはけしからんと罵倒し、八百長行爲をしろと強制するのである。

かうした茶の間の正義は、ただ周りが怒れと云ふと怒つた振りをするだけで、番組が變はれば途端に忘れて、いつもの生活に戻つていくだけである。そんな正義とやらは緞帖芝居よりも劣る代物である。そんな芝居に附き合はされる迷惑くらゐ辯えない手合に限つて、赤の他人に反省しろと嘯くのには閉口する。

それどころか反省しろなどと赤の他人に威張る人までゐる。しかし反省といふ奴は、自分以外ではどうにもならない外部の基準を前提としてゐる。その外部の基準と比較して、自らの行爲を正すことが出來るのである。現代の殆ど總ての人は、相對主義やらを持て囃し、共通の價値も外部の基準も拒否してゐる。それで反省などと笑止である。

さうした反省などは、總て紛物である。その目的は、せいぜい相手を己の思ひ通りにする遣口に過ぎない。

私が戰爭を罪惡と見るべきだといふ見方に反對なのは、かうした八百長を心を込めて行へなどと命令する權利が、たかが人間如きにあるとは考へてゐないからである。

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或る偏屈漢の異見(顏の無い人間)  

 基準だの主義などと云ふ言葉を看板にして意見を吐く人を見かけるが、そんな基準やら主義やらよりも福田恆存が述べたごとく、今の人に大事なのは人格の分裂にもつと注意を拂ふ必要があると考へるのである。その場限りの辻褄合はせの論理を吐く人がゐるが、時系列でその人間の意見を見ると無殘な支離滅裂を晒す人が如何に多いかを、年を經るごとにこの目でみてしまふ機會が増えていくからである。智識人とかインテリとかは、中途半端に頭が良いから確かにその場だけは取繕ふことはする、尤もその遣口といへば、肝腎要の問題には一切答へないで言を左右にする發言を延々とするのが特徴なのだから文字通り話に成らないのである。

 ある御仁はいつもは如何に日本の官僚が出鱈目ばかりを行ひ、經濟には官僚が關はると惡しきことしか行はないと言つてゐた人物が、世が東京電力憎しの風潮に成ると送電一括國有會社をつくれば良いと突然言ひだして、普段の官僚經濟介入反對とどう整合するかと質問すると、何故かその國有會社は「惡しきことを行はない筈だ」と云ふ何の根據無くそのやうなことを聞かされる。

 また別の御仁は自由主義とか個人の意志が大事と普段述べてゐるが、死刑の遺言制度などを提唱すると、何故か死刑反對と死刑實施の遺言の意志表示になると、A(死刑實施)とB(死刑反對)を殺害したCに對する量刑にたいしてAとBの遺族の話合ひが始まるといふ、死刑反對の意志表示が死刑實施の意志表示よりも重くなる(BがAに口出し可能なのは論理上さうとしかならない)と述べて、自由や個人の意思よりも重い價値があるとしか思へないやうな言葉を聞かされる。

 かうした人間は一體全體何を考へて言葉を使つてゐるのであらふか、その場限りで何とでも出來るやうに思ひ込んで言葉を弄んで、本當に何も己に影響がないと思つてゐるのであらふか、そのやうな人間の末路は繪葉書に映された油繪のやうに陰翳の無い「のつぺらぼう」に成り果てる程に、殘酷な復讐を己の人格にされることに氣附いてゐない。そしてさうなつた時にはもうその人間の述べる主義や信念や主張やら意見などは、祭りの夜店に竝ぶやうな安つぽい流行物のお面程度の代物にしかならなくなる。その安つぽさに自他ともに眞面目に附き合ふことが不可能になつてしまふ。

 その状態に陷つた人間は何をしでかすかと言へば、おとなしくすることはせずに、必ずと云ふほど道連れを増やさうとする。自分だけがそのやうな状態にゐるのが耐へられないからである。そのため彼等は一見正義の士であり、憂國の士であり、また惡に立ち向かはんとする勇士であり、自己犠牲溢れる愛他の士といふ振舞をするが、その内容は過去から全體を眺めてみると支離滅裂で、對象を攻撃出來れば主義主張などおかまいなしの態度をとつてゐるのである。先づ己を大事にする人は、このやうな人間にだけは近附いてはいけないと私は考へるのである。己を粗略に扱ふ人間が、どうして赤の他人を粗略に扱はずにゐられやうか、その手の人物は己の欲望に爲には、他人を平然と犠牲にするのを躊躇はないのである。

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或る偏屈漢の異見(雄大は杜撰に非ず) 

 先日の事、ある會合で戰略論なるものを聞いてゐた時のことである。色々な話を聞きながら最後の方になり或る發表者が、維新から日露戰爭、大東亜戦争時、戰後の冷戰時代を「軍事重視と經濟重視」、「同盟重視と獨立重視」、「大國指向と小國指向」といふ要素を組み合はせてそれぞれの状況を説明してゐた。その人は結論として、今後の日本は軍事と經濟、同盟と獨立、そして大國指向と小國指向の中庸を目指す中道戰略なるものを目指すべきではないかと提唱してゐたのである。

 その話にはどうも聽いてゐる人が特段反對してゐないやうに思へた素振りだつたが、私にはどうにも不可思議なことがあつたので、その人に「話に中道とあるのですが、一體全體何を基準として中道とみるのでせうか」と質問した、相手はポカンとした表情なので、下手な譬喩で再度「その戰略の中間だといふ『北極星』や『メートル原器』は何處なのですか」と尋ねたのである。

 相手は困惑した表情で基準などは表現するのが難しいと囘答し、周圍もそれに同調し、あまつさえそのやうなものは無いと斷言したり、状況次第ではないかと附け加へたのである。時間も押し迫り議論する時間は無いため、その話はそれまでとなつてしまつたが、私はどうにも腑に落ちないままであつた。

 それは状況次第で基準が變はるやうなものを前提などしてゐるならば、そもそも『中道戰略』などど云ふ大層な名を附けるなど欺瞞でしかなく、それには「場當り的」や「御都合主義」といふ名稱が相応しいものでしかないのではと考へるからである。

 常々思ふのであるが、私はこの手の「国家百年の計」なる構想がかくも杜撰な言葉遣いで語られるのを怪しむのである。曰く言い難しとは言うけれども余りにその言葉を安易に遣ふやうになれば、それは怠惰以外の何物でもないものでしかなく、その怠慢は自己欺瞞と自堕落な思考により己を無残にするしかないと考えるばかりである。

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或る偏屈漢の異見(貪らんがための教育か)  

 只今は教育水準も上がり、日本では大學進學率が五割に成ると云ふ時代で、十數年前の私の頃は四割ですから益々これからも進學率があがると云ふ傾きなのかも知れません。格差やら大學は出たけれどそれにたいする働き口に乏しいとも憂ひ顏で云ふ御仁も多いのでありますが、私は正直にそんなことよりも危ないと考へてゐることがあるのです。

 それは明らかに評論家氣質の素人が量産されてゐると云ふことなのであります。この智慧をつけた人間は、表面上の謙虚の衣を着けてをりますが、貪らんばかりに快樂を求めると云ふ厄介千萬な氣質を持つてをります。その不快な生態を論つて見ませう。

 先づこの者が好むのは何よりも悶着があるところです。それも大抵は身の丈にあつた問題ではなく、それこそ個人では手に餘ることが目に見へる。社會問題や政治問題などを好みにします。そこでこの人間は甲乙の兩論の惡いところを指摘すると云ふ悦を貪ります。岡目八目と云ふ言葉にあるとほり、外の人間は相手の惡い所を指摘するのは容易いことなので、甲にはかうした惡い點がある、乙にはかうした惡いところがあるとして雙方ともに惡いと指彈して、己の智慧なるものを見せ附けやうとします。

 そしてここからが更に性質が惡いところでして「素人ながら」などと謙虚な臺詞を吐いてから、己以外の誰かの懐から1兩分を出させると云ふ三方一兩損案なるものを提出してきます。これで當人は己が問題解決の仲裁をなし、善事をなしたと云ふ快を得やうとします。しかし大岡越前が偉いのは、己の懐から1兩分の損を出して、しかも仲裁相手の兩方から1兩分損させたことの恨みも引受けると云ふ態度なのであつて、己の懐の痛まぬ折衷案などをしたり顏で言ふことではありません。

 またこの者は甲乙から反応が無い間は、己の三方一兩損案に妙に氣に入つて醉ひが囘るやうに、何々といふ對象は懐の一兩損を惜しんでゐる。そのため甲乙が爭ふのだと憤つて見せます。これは勿論甲乙を思つての發言ではなく、己の考へを受け入れぬ相手の愚昧なるものを叩くことで己の智慧を誇りたいのと、己が如何に爭ひを救ひたいと願ふ義人であると思ひたひといふ快を貪ろうとします。また甲乙の一方もしくは兩方からその提案の無意味さを指摘されても恥入るよりも、聊か氣分を害したやうに「はじめに素人ながらと申しました」などと、とぼけた態度をとるのもその特徴として舉げられます。

 昔は乞食と醫者は三日たつたらやめられないと言はれましたが、只今の評論家氣質の素人は元手もいらず、頗る安易に己の智慧と善良さと義人振りを示せるといふ快樂を貪れるのだから、三日どころか、一度でもやればやめられないものでせう。かつて明治の頃に齋藤緑雨は「教育の普及は浮薄の普及なり」と述べたが、只今のこの評論家氣質の素人の横行する樣を見ると、私にはこの言葉が重苦しく響いてくる。そしてその末路が如何に悲慘かは、福田恆存が昭和四十四年の安田講堂での事件を論じてゐる際に出て來るので長くなるが引用する。

<引用開始>
 最後に安田講堂に警官隊が這入つた時の事だ。機動隊は半ば命懸けで講堂の扉を開かうとしてゐた。後詰として控へてゐる機動隊の傍には、外套の襟を立て、ポケットに兩手を突込んで攻防戰を傍觀してゐる一群の教官がをり、その囁きが隊員の耳に這入つて來る。「機動隊員は頑強なのばかり揃へ過ぎるね」とか「警官導入は矢張り望ましい事ではないね」とか、その種の仲間同士の會話である。機動隊員に「頑強」な人間を選ぶのは當然の話で、それを皮肉混りに語り合ふ事によつて國家權力の「手先」に一矢を酬いた積りの負け犬的自慰表現であらうが、場合が場合であるだけに、といふのは、自分達の無能を助けて貰ふ爲に要請した警官が命懸けで「戰つてゐる」時だけに、これは單に子供ぽい負け惜しみとして見過ごせないものがある。

 そこには自分の無能と劣弱を蔽ひ隱さうとする意識だけではなく、その期に及んでもなほ大學、或は大學人として國家權力に對する優位を保たうとする意識、或は國家社會の外にある事は固り、大學に在りながら大學の外に在る第三者としての特權的地位を保たうとする意識が働いてゐるからだ。(福田恆存評論集 第八卷 PP.269~270)
<引用終了>

 外套のポケットに兩手を突込み、自分達の不始末に對處する機動隊へ非難の囁きを發する教官達の無力な姿こそが、評論家氣質の素人の末路に他ならない。その悲慘さは目を覆はんばかりだが、どちらがこの世で多數かといへば、勿論教官達の方が壓倒多數であり、その姿に嫌惡すら感じさせるものであらふと、己の中にはあの教官連中がゐることを自覺するしかない、若しこの自覺を曇らせるのが高等教育なのだとしたら、私には高等教育とは「己を欺く術を教へて他人を貪るところなり」と考へてしまふのである。

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