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読書録其の31―1(生物としてのヒトと人間としての人_1) 

書名:日本はなぜ敗れるのか-敗因21カ条
著者:山本七平
出版社:角川書店
価格:(金781円)消費税別
刊行年:平成20(西暦2008)年11月5日 第二十三刷

書名:虜人日記
著者:小松真一
出版社:筑摩書房
価格:(金1,200円)
刊行年:昭和50(西暦1975)年6月30日 第一刷

 只今の私は勿論として我国では「飢渇」はもはや死語同然の扱いをうけている。いやそんなことは無いという御仁はいるであろう、飢餓の恐ろしさは新聞・テレビ・ラジオ・雑誌・ネットで見聞していて十分に知られているのだとし、そうした情景を見て「心が痛む」やら「怖いものです」や「悲惨です」などど言う返答とともに飢渇は認識されておりますという返答をしてくるのだと思います。しかし、それはその人が飢渇を「人」の視点で捉えているということを表明しているに過ぎないのです。それでは「ヒト」が飢渇となればどのような状態になるかをよく言い表している部分を以下に引用します。

 同じように飢えれば、そういう感情は一切なくなる。そして本当に恐ろしい点は、この「なくなる」ということなのである。小松さんは末尾にはっきりと記している。「いずれにせよ、この栄養失調者の群は、同情されぬ人とが多かった」と。ここは収容所であって、ジャングルのような極限状態でなく、他の人びとはそれほどひどく飢えてはいない。しかし、写真のような姿を現実に目にしても、人びとは、ビアフラや西アフリカの写真を見るようには同情しない。逆に恐怖に似た嫌悪感さえ抱くのである。
 飢えが自分に関係ない遠い異境のことだと思える間は、そして写真等でそれを眺めるにすぎない間は、人は同情する。しかし、この小松氏の絵に対してすら、人びとはそれほどの同情を感じまい。たとえそれが同日本人であっても―――。そのはずであって。それが自然なのである。
 飢え乃至はそれを象徴する姿は、遠くて無関係な間は同情できる。しかしそれが身近に迫れば、人びとは逆に嫌悪する、さらにそれが、本当の自分に迫って来れば、本能的な恐怖か、それに触れまい、見まいとして、その人を逆にしりぞける。そしてそれは、その人がふだん声高に「人道的言辞」を弄していたとて、所詮、同じことなのである。(日-PP.232~233)

 生物としてのヒトの目的は明瞭であり、自身の生命活動維持と繁殖活動というのは当たり前に姿となります。そのヒトから見れば飢渇は何としても避けようとするのはこれまた当然でもあります。眼前に飢渇の景色をヒトが目にすれば、それは「オマエも飢えるぞ」という己自身の「ヒト」の部分から発せられる明瞭な警告信号となりますから、この事象に対して先ず嫌悪感を伴う恐怖を抱くのは、避けられないものとなります。

 私自身はぼんやりしているためと、飢渇が死語となりはてたような時代からの生まれ(昭54年)ですので、この嫌悪感を体験することはありませんでしたが、まだ日本にこの飢渇が存在していた時代に生まれた母(昭27年)は幼少のときに、「モーレードン」からこの嫌悪感を抱いたという話を聞くことがありました。その話によると、ある日母の住んでいた部落で、「モーレードンが来た」という話が伝わるやいなや、皆一斉に家に閉じこもってしまったのですが、たまたま遊びに外に出ていた母は、妹以外は全員不在の自宅に帰る途中で、風体はボロボロの服を着てヒョロヒョロの「モーレードン」が自宅に向っているのを目の当たりにして、恐怖を抱き「妹が喰われる」と心中思い泣き出してしまったそうです。

 その話を聞いた当時の私には、母が「モーレードン」の何に怯えたのか良く分らなかったが、それを嫌悪ある恐怖としていたことだけはおぼろげながら理解することだ出来ただけでした。それから年月は流れ私が、上記2著作を読み、引用部分を目にしたとき、漸くその恐怖の意味を了解することが出来たのです。そして私なりに人間が持つ「人」と「ヒト」のうちで全くといってよいほど無知な後者に対して、次回以降から上記2著の力を借りながら見つめ考えてゆきたいと思います。

テーマ: 読んだ本

ジャンル: 本・雑誌

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読書録其の24(法と責任の摩擦) 

書名:洪思翊中将の処刑
著者:山本七平
出版社:文藝春秋
価格:(金1700円)
刊行年:昭和61(西暦1986)年3月 第三刷

いつものように紹介をして参ります。

(※):私注となります。

・日本軍は韓国人を本当は信用していなかったから、イギリスがインド軍を編成したように、韓国軍を編成しなかったし、徴兵制も施かなかった。だが昭和十八年になり、戦局悪化の予想にあわてた軍が朝鮮全土に急遽徴兵制を施いたが、再召集されてその連隊長をやらされた老大佐の述懐によると、訓練どころか「逃亡させない」が精一杯の状態だったらしい。(P.22)
→我国はどうも思考形態に垣根を取り払って同化すれば友好関係を構築するという傾向が出るが、はっきり異なる朝鮮半島でこの措置をとったことが両国にとって痛恨事だったと考えさせられる。

・この点西欧よりもむしろアメリカの"世論"に似た面があるが、調べてみると、少なくとも韓国に関する限りこの傾向は戦後の特徴ではなく、戦前、否、明治以来ほぼ一貫している「日本人の韓国観」だともいえる。その特徴は日韓を区別できる、そのため「韓国の歴史において韓国を見る」ことができず、日本の現状を絶対の尺度として相手を批判し規制しようとする"アメリカ的態度"である。尺度とは言うまでもなく、戦後は「アメリカ輸入・日本型民主主義」であり、戦前は「プロシア輸入・日本型君主制」であった。(P.54)
→我国は夏目漱石が指摘したように、近代から思考方法まで含めた「モデル輸入」を行う選択を行ったが、借物ゆえにかえって基準の絶対化をして、そのモデルから遅れたと見做した人々を指導する悪癖をみにつけたということか。

・一体、日本側の発想のどこに間違いがあったのだろう。明治以来の日本の行き方に一貫しているのが「既成事実をつくってしまえばこちらの勝ち」という発想である。われわれはおそらく「既成事実」の信奉者で、ひとたびそれが出来てしまうと、終戦時のように全員総転向でそれに従う。そこで常に既成事実をつくることにのみ熱中し、そのためには全勢力を投入する。(P.84)

・この規定の中で最も問題なのはB(1)(c)の傍点(※非人道行為が国内法に違反するかに否かに問わずの部分)を付した部分ではないであろうか。この規定が挿入されたのは、おそらく念頭にナチスがあったためと思われる。というのはナチス・ドイツの国内法においてユダヤ人虐殺は合法行為として行われたわけであり、それを積極的に計画し従事し熱心に遂行した者でも、「それが行われた国における国内法」には違反しておらず、従って自分は自分を律していた「法」を犯していないと主張できる。そしてナチス・ドイツはアメリカもこれを承認していた独立国の政府であって非合法政権とはいえない。その国の合法的政権の公布した法にその国民が従うのが「合法」であり、「法に従ったがゆえにそれはその者の個人的犯罪であるとの主張はおかしい」という主張が通れば「戦犯」という概念そのものが成立しなくなるか、きわめて限定された範囲に限られる。この点は東京裁判におけるインドのパル判事の「全員無罪論」との関連でも問題だが、洪中将の場合でも、「日本国の法および軍の規律を守ったから違法ではない」という主張は成り立たないことになる。(PP.114~115)
→ニュルンベルク裁判を少し知るだけでも、極東国際軍事裁判の見方が変化する。巷で冗談話として「次はイタリア抜きでやろう」と言う人がいるが、上記の引用を知るだけでも私としては、几帳面に悪事を行うドイツの共犯にされるくらいなら、チャランポランなイタリアの巻き添えを喰らうほうが余程良いと考える。

・比島戦における邦人の処置については多くの非難があり、特に、山岳州まで邦人をつれて行ったのは「山下大将の失策」だと言う人もいる。しかし、当時のゲリラの諸行為の実態を知っている者には、この非難は必ずしも妥当性をもたないように思われるし、ゲリラによる虐殺やそれを目前にしての集団自決が起ったならば「軍は邦人をマニラ乃至その附近(の食糧豊富な平地)に放棄して自分たちだけが山岳地帯に逃げ込んだその結果……」という、満州におけると同じ非難が起っていたであろう。(P.134)
→我国は戦史に共通する気になる点は「現地の人間に過剰な責任を負わせる」思考形態である、大体の論としてなんでもかんでも「現地の責任者」が臨機応変にやればよかったと指摘するが、長い間に現場を無権限状態に放置したり、大きな方針変更をアリバイ作りのような一片の電報や会議参加で済ませている中央側の重過失には滅多に目を向けられず、枝葉末説の議論に精力を消耗し続ける虚しい状態に陥ってしまう。

・ジュネーブ条約では捕虜はすべてどこへ派遣されようと捕虜司令官の指揮下にあり、従ってすべての権限と責任は捕虜司令官にあり、その人が「失業」になることはあり得ない。いわば日本側は「ジュネーブ条約の精神云々」と言いながら、捕虜の編成の基準は『作戦要務令』通りなのだが、だれもそれを口にしない。(P.192)
→此の点を現行の自衛隊が頭を悩ませている厄介な問題となっていなければ良いのだが

・しかし、考えてみれば「意識的に巧みに責任を回避したり転嫁したりすること」は、明確な責任体制の中でこそ起り得る非倫理的行為であり、体制そのものが無責任であるということは、それとは逆で、その中の"責任者"が事実を事実のまま率直にのべればのべるほど、責任の所在が不明になっていく体制のはずである。もちろんこの体制では「一切が私の責任である」といってすべての罪を引きうけることも可能である。この態度を立派と考えて感動する人もいるわけだが、これは「無責任体制」であるがゆえに取り得る立派な態度であることも否定できぬ事実であり、これを行われると「個人的立派さ」と引きかえに「組織の欠陥」が不明になってしまう。という観点から見ると、この態度を期待し、それを立派と考えること自体が、形を変えた「無責任体制の支持」であることを否定できず、これへの倫理的評価は無責任体制と裏腹の関係になって、それを容認しかつ支持していることになるはずである。(P.205)
→こうした点が山本七平たる所以で、その書を読むときに背筋が凍りつく体験を避けることができないのである。

・いずれの時代のいずれの場所にも無責任人間はいる。しかしそのことは、「補佐責任(※ある案を出した人間は案の採用実行者と共に執行責任を負う)」には「権限責任(※ある案を出した人間と案の採用実行者の執行責任を負わない)」とは違って「責任という意識」がなかったということではない。この点を無視して、この基本的に違う二つの責任感を同一視した「責任」という"戦後話"による戦前・天皇・軍部等への批判は、すべて、その実態を捉えていないという点で、はじめから問題とするに足りない愚論であろう。虚構への批判をいくら重ねても、実態への真の批判とはならず、真の問題点の剔出にもならないからである。(P.249)

・(※米兵捕虜が解放されると歓迎された待遇を水準として捕虜生活を評価する)もちろんそうならない者もいるが、多くの者はこの倍、「今の(※恵まれた)状態を基準とすれば……」日本軍の待遇は虐待そのものであったと考えても不思議ではない。と同時に捕虜時代にゴマをすった者ほどそれが強烈な屈辱感となり、卑屈さが一転して高飛車な告発になることもある。現に、ゴマすりの偽証で絞首台へ送られた者もいる。そしてこれらのことを明確に意識し、そうならないよう自戒しつつ公正な証言をすることは、相当に自己抑制のできる人間にとってもむずかしいことだと言わねばならない。人間それほど強い存在ではない。(P.319)

これ以上は、ただただ膨大なる引用紹介が続いてしまうのでここで筆をおくことにします。内容はある既に60数星霜の月日がながれた数多く行われた戦時犯罪の公判を取上げた著作ではありますが、日本と朝鮮と米国の「法」を通じた考え方の相違と、そうした法と我国がどのような摩擦が生じていったのかを知ることに裨益することが大きな著作ですので、この本を見かけましたら是非に一読を薦めたく思います。

テーマ: 考えさせられる本

ジャンル: 本・雑誌

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読書録其の23(『わからないこと』の価値) 

書名:戦国軍事史への挑戦
著者:鈴木眞哉
出版社:洋泉社
価格:(金860円+消費税)
刊行年:平成22(西暦2010)年6月

それではいつものように紹介をして参ります。

(※):私注となります。

・それでは、陸軍参謀本部の計算とは、どういうものかというと、当時の信玄の所領を一二〇万石とし、一万石について二五〇人を動員可能と見て、約三万という数値を出しているのである。(※中略)氏(※高柳光壽氏)が『三方原の戦』や『本能寺の変・山崎の戦』でいわれていることを要約すると、まず、領地というのは常に変動しているし、そこにいる土豪などの従属関係もはっきりしないことが多いから、そう簡単に把握できないということがある。さらに、そこで当てはめられている石高というものは、すべて慶長年間(一五九六~一六一四)以後のものであり、天正年間(一五七三~九一)以前のものはまったく不明である。(PP.20~21)
→我国の正史主義は表面上は官庁からの資料を貶しつつ、こういった肝心要の部分を批判しないことが多々見られる。

・(※信長が家臣を城下に集めようとしたことは、史料的にも確認できるが)だが、それ以上のこと、たとえば鉄砲兵をどのように集められて、どういう訓練を施されていたかといったことはまったくわからない。そういう肝心なことを説明できないままに新しがってみても始まらないと思うのだが……。(P.37)

・(※著者は、小銃が出てから何故我国の武具は華麗または奇抜なものが増え、また欧州でも同様にそうなったのか疑問に思っていた。)それに答えるものは、なかなか見つからなかったが、ダグラス・オーギルというイギリスの軍人が一九七〇年にロンドンで出した本にヒントが載っていた。その本は、戦車について論じたものだったが、その前史の中で騎兵の美装について触れていたのである。オーギル氏によると、おおいう美々しい格好は、戦闘行為そのものには、ほとんど関係がなかったが、戦場の硝煙の中で敵味方を識別するために必要だったのだという。だが小銃が改良されて射程が延び、さらに無煙火薬が用いられるようになると、そういう出で立ちは、敵のライフル銃兵に絶好の標的を提供するだけになってしまったとある。
→黒色火薬時代の硝煙というものが知りたい人は、米国映画のバスター・キートン『The General』を参考にご覧になると良い、当時の連絡・通信コミュニケーションにおいて、華美なる服装というのがどういった役割を果たしたか知る一助となると考える。

・火縄銃の場合には、安全管理上の必要などから、鉄砲兵は前後左右をかなり空けた形で配置しなければならなかった。よく、織田信長は鉄砲兵を密集させて使ったなどと講釈している例があるが、それは真っ赤なウソである。鉄砲兵を集団としてまとめて使うことと、隙間なく並べることは、まったく別である。(P.132)
→よく催しもので火縄銃を狭い間隔で打ってみせるのを見かけるが、その催しものが「好天下」という条件がついていることを忘れてはならないということか。

・この人たち(※日本刀は比類のない優秀な武器だと信じているような人たち)は、私が戦闘報告書に拠って、鉄砲や弓による負傷者にくらべたら、刀剣類による負傷者など知れたものだといったのが、まず気にくわない。刀剣でやられると致死率が高いから、負傷者の統計には出難いのだという理屈で反発してきた。だが、前項で見たとおり、戦死者の死因がわかる場合でも、鉄砲をはじめとする<飛び道具>による比率が圧倒的に高く、槍でやられた者は若干いるが、刀で切られた者など一人もいない。(P.235)
→何故未だにこの「日本刀神話」が受入れられるかは解らないところが多いが、おそらく江戸時代の武士の二本差という象徴の意味を、戦前・戦後ともに勢力の大きい剣道関係者が「武士道」の名の下に独占しようとする思想上の問題なのではないかと考える。

著者は、最近の我国における応仁~元和時代まで続いた「戦国時代」における遠戦志向(弓矢~鉄砲という変換を通じて)が主流であるという主張を軍事史から唱える人です。その論を知りたいという人は著者の『鉄砲と日本人』を一読されることをお勧めいたします。さて、今回の著作は戦国時代の軍事史では「何がわかっていないか」という率直かつ興味深い話が満ちておりますので、こちらの時代に興味を持ちかつ「無知の知」の大事さを理解されている人でしたらご一読されると得るものが多い書となります。

テーマ: 読んだ本の紹介

ジャンル: 本・雑誌

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読書録其の14(帝国陸軍の頂点と奈落のみちのり) 

書名:帝国陸軍の栄光と転落
著者:別宮暖朗
出版社:文芸春秋(文春新書)
価格:(金780円+消費税)
刊行年:平成22(西暦2010)年 第1刷

私が贔屓にしている著者の別宮暖朗氏の新刊となります。今回は明治・大正・昭和における帝国陸軍の破断面についての非常に興味深いところが述べられており、一読して裨益することが大きいと考えております。その一部だけとはなりますがいつものように一部を引用して紹介をしてゆきます。

※():私注となります。

・(※日清戦争時の最後通牒の一文)今より五日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、このさい(清国から朝鮮への)増兵を派遣するにおいては「脅迫」の処置と認む。

という文言が含まれていた。国際法では「脅迫」とは「挑発」(probocation)を構成し、先制攻撃と等価であった。「脅迫」の処置と認む、とはもし挑発行為に出れば反撃する、すなわち武力行使にでるという意味であった。(P.62)
→我国ではこうした国際関係の重大行為を「紙切れ上のこと」と捉える感覚があるためか、後の時系列に発生した豊島沖海戦の意味を我国の「先制攻撃」と認識する、近現代史家が多いことに対する的確なる回答となる場所である。

・日清戦争における日本の戦没者は一万三千に達したが、一万を超える死者は凍傷を負った軍夫から出た。太平洋戦争の島嶼戦における餓死者を思い出させる。北朝鮮や遼東の寒気を経験した日本人はなく、裏地毛皮コートの準備がなかった。参謀本部の兵要地誌が軍事に片寄り一般経済に及ばなかったためであった。(P.67)
→第二次大戦時においても、残念ながらこの面の弱点は直らず南方地帯の一般経済や慣習に甚だ疎いために我国では、多くの将兵を餓死に追いやってしまった。

・山縣は桂を好まなかったが政務を妨害することはなく、人事には公平であった。日本型の組織では、組織内部の互選人事ではなく、組織外の権威者による人事の方がうまくいくのである。(P.81)
→山縣死後の混乱を知ると重い指摘の部分である。

・龍岩浦事件とは、ロシアが朝鮮領内に軍事基地をつくる、すなわち侵略的行動であった。これは日英同盟の発動要件であった。一国の軍事的行動を口で、すなわち外交で撤回させることはまず不可能である。(P.96)
→戦後は平和主義なる言葉で、こうした戦前の当たり前の常識を忘れてしまい、いとも簡単に当時の日露交渉に締結余地があったと嘯く史家が多いのに苦笑するしかなくなる。

・日露戦争勝利による陸軍への報酬の第一は国民からの信頼であった。いかに予算が縮小されようとも、勲章がちいさかろうとも、軍隊にとって国民からの信頼に代わるものはない。(P.145)

・永田鉄山は青年将校が政治について口出しすると、「余計なお世話だ」というのが口癖であった。永田ありせば、昭和の陸軍の暴走を防げたという評をみかける。だが、どうだろうか。これまでみてきたように、永田自身が暴走の牽引車(※軍主導による純戦時体制と統制社会主義のイデオローグ)であったのだから。(PP.199)
→戦前の我国においては、共産主義は「天皇制」反対の一点を持って取締りがなされており、国有化に代表される社会主義政策そのものに対しては、むしろ歓迎されていた風潮があった、こうした社会主義政策が我国で上手くいかないことを国民の大部分が肌で実感したのは、戦後の配給が如何に上手くいかない配分システムだと自覚する昭和20年代半ば以降まで待たなければならない。

・官僚統制には超えられない矛盾がある。統制とは、官僚による企業支配であり、経営者となった官僚は自由競争を回避し、独占による安定した利益を追求するしか経営の方策が見つからない(P.223)

・戦後になって、省部軍人はそのとき軍内で(※支那事変における)「拡大」「不拡大」論争が起きたと回想している。しかし、戦争の「拡大」「不拡大」という選択肢ができるのは、イニシアチブを握った方であって、支那事変初期においては中国側、すなわち戦争計画の実行を命令した蒋介石がイニシアチブを握っていた。(P.228)
→これは、蒋介石にイニシアチブをとられた(有体にいえば相手からまんまと奇襲攻撃を受けたという)ことを糊塗したい軍官僚の虚栄心を的確に指摘している。

テーマ: 紹介したい本

ジャンル: 本・雑誌

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読書録其の9(人物好悪と功績評価は別々に…) 

書名:山県有朋
著者:伊藤之雄
出版社:文芸春秋
価格:(金1300円+消費税)
刊行年:平成21(西暦2009)年

私が元勲といわれる人物で贔屓な人物を挙げよといわれると、山県有朋の名を先ず第一に挙げます。巷では人気の無い人物でかつ、功績も伊藤博文と比較すると見劣りするのも確かですが、後の「集団指導体制」という名の無責任体制を運営した、大正昭和期の政治軍人達よりも遥かに判断力と識見の高さは備わった人物であったことももう少し知られてもよいのではないかという考えを抱いております。

さて前置きはこの程度にしまして、いつもの如くかいつまんだ引用紹介を致します。

※():私注となります。

・西郷の死体は、桐野・別府らと少し離れた島津邸の辺に、首なしで発見された。首は後に埋めてあるのが見つかった。西郷軍の死者は一五〇余名だった。午前九時頃から、山県・川村・の両参軍と谷少将らが死体の検分をした。(PP.164~165)

・(※明治11年頃の参謀本部独立について述べた後)それは、当時の太政官制の下において、陸軍卿の人事は伊藤・岩倉ら文官の参議・大臣の有力者たちが実質的にきめており、新しくできる参謀本部長も同様だったからである。現に西郷従道陸軍卿・山県参謀本部長の人事も伊藤らが決めており、陸軍関係の有力者の人事に文官の有力閣員が口出しできなくなることなど、かんがえられなかった。(P.177)

・ところで、一八八一年四月頃には、海軍にも参謀本部を設置し、海軍長老で参議の川村純義中将(前海軍卿)を「参謀長」に任じ、川村が海軍の実権を握るという構想があった。山県参謀本部長は、海軍に参謀本部を設置するのは欧州にも例がないと、強く反対した。(P.183)

・山県は身長が「五尺六寸五分」(約一七一・二センチメートル)もあり、当時としは非常な長身で、軍服もフロックコートも和服も風采が引き立った。(P.221)
→ちなみに森林太郎は五尺二寸(約156センチメートル)、夏目金之助は五尺一寸(約153センチメートル)という数字となります。

・(※日清戦争後の日露和親の意見書提出後の辺り)ロシアが三国干渉の中心であり、イギリスがこれに加わらなかったことで、山県の外交上の提言が現実から遊離したものであることがわかったしまった。現実を冷静に判断できる伊藤首相や陸奥外相に比べ、山県は列強認識の点で劣っていたのである。山県は政党政治の発達したイギリスが嫌いだった。イヂリスの内政に関するその個人的感情が、東アジアにおける列強の利害をめぐる動向判断を曇らせた。(P.284)

・山県の収益財産は「日清日露戦役後の恩賜の公債数万円」が主なるものであったが、第一次大戦中に物価が上昇すると、家計の収支が赤字になった。そこで同年(※大正六年)、「椿山荘」を売却した。もっとも山県は、「二十何年愛撫した庭園」が破壊されることを惜しみ、「一木一草変更せず」という条件をつけたのだった。(P.393)

・(※大正3年)八月七日から八日にかけて、大隈内閣は徹夜の閣議を行い、加藤外相の主導で、同盟国イギリスの側に立って参戦することを決めた。その後、大隈の求めに応じ、元老会議は閣議決定に同意し、御前会議で参戦が正式に決定、八月二三日に日本はドイツに宣戦布告した。内閣が元老に相談する前に開戦を決める、というやり方は前例がない。山県は、「加藤は一体其眼中唯自分一人のみで、国家と云う観念が無い」と、加藤外相に対して非常に憤慨した。(P.399)

・翌年(※大正4年)一月、二十一カ条要求に関し中国と交渉が始まると、山県は元老にも時々報告するように、と加藤外相にも話しておいたが、三ヶ月以上経っても加藤からは何の報告もなかった。[中略]さらに日本が最終案を中国に提出する前、「必ず英・米・露等と意志の疎通を十分に計」っておくように、と山県は加藤外相に命じていた。ところが、二十一カ条要求には中国のみならず、第五号要求に関し、米・英からも批判が起った。(P.403)

・太平洋戦争への道は、山県陸軍から必然的に導き出されたものではない。むしろ、山県の死後、山県の陸軍への理想や精神を忘れた陸軍軍人たちが、山県の作った陸軍の組織や制度・権力を都合よく解釈して利用し、太平洋戦争への道をつくったのである。(P.462)

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