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言葉言葉言葉 (戰爭と反省) 

久方振りにこちらを更新する。
どうもSNSといふのは、過去の記事を取り出すのが難しいと分つたので、
こちらに徒然にまとめた内容を不定期に更新することにする。

私は福田恆存の「端的に言へば、大東亞戰爭は罪惡ではなく、失敗だつたのである。(中略)若しあの戰爭を惡とする綺麗事にいつまでも固執するなら、その必然的結果として、それを善に高めようとする居直りを生じるであらふ。」に同意してゐる。

先の戰爭の罪惡視といふものは、日本では、先づ初めに自らは先に罪惡を認めた、優れたる先達者として、他の人々を説教をする人士が横行した。そして、その反撥である居直りも、善に與する吾身として、他の人々に説教をする人士となつた。この兩者の動きは、表看板以外は良く似てゐる。

戰爭を罪惡と見なければならないと言ふ總ての人は、自分以外の赤の他人に罪惡なるものを見出し、罪惡を裁く裁判屋に成下るのである。そして罪惡の認定に從はない人間を、まるで水戸黄門の印籠に平伏しない役者の如く、平伏しないのはけしからんと罵倒し、八百長行爲をしろと強制するのである。

かうした茶の間の正義は、ただ周りが怒れと云ふと怒つた振りをするだけで、番組が變はれば途端に忘れて、いつもの生活に戻つていくだけである。そんな正義とやらは緞帖芝居よりも劣る代物である。そんな芝居に附き合はされる迷惑くらゐ辯えない手合に限つて、赤の他人に反省しろと嘯くのには閉口する。

それどころか反省しろなどと赤の他人に威張る人までゐる。しかし反省といふ奴は、自分以外ではどうにもならない外部の基準を前提としてゐる。その外部の基準と比較して、自らの行爲を正すことが出來るのである。現代の殆ど總ての人は、相對主義やらを持て囃し、共通の價値も外部の基準も拒否してゐる。それで反省などと笑止である。

さうした反省などは、總て紛物である。その目的は、せいぜい相手を己の思ひ通りにする遣口に過ぎない。

私が戰爭を罪惡と見るべきだといふ見方に反對なのは、かうした八百長を心を込めて行へなどと命令する權利が、たかが人間如きにあるとは考へてゐないからである。
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