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読書録其の35(人間は戰爭を捨てられない)  

書名:戰爭は無くならない
著者:松原正
出版社:地球社
価格:金2,100円
刊行年:昭和62年4月20日 二刷
(※)は私注

 今囘の讀書紹介はこちらの本となる。兔角日本に於てはこの手の話題は平和萬歳主義者であれ自稱現實主義者であれ思考停止しがちな戰爭について人間がどのやうに扱つてゐるかを正面から論じた著作である。いつもの通りであるが私が興味を抱いた箇所を紹介してゆくことにする。

・とまれ、防衞について語る段になると、保革の別無く、識者は必ずと言つてよいくらゐ「平和はよい事に決まつてゐるが」云々と言ふ。だが、平和はよい事に決まつてはゐない。二千八百年昔のアッシリア時代からこのかた、軍縮會議が實を結んだ例しは無いが、それはつまり二千八百年もの間、人間が平和を「よい事に決まつてゐる」とは考へなかつたといふ事である。そしてそれが何とも愚かな所業であつたとしても、二千八百年も愚かだつた人間が、どうしてこの先賢くなるであらうかと、「正氣の人間ならば」さう考へるのがたうぜんではあるまいか。(P.8)

 「平和はよい事に決まつてゐるが」と言ふのは、己の「平和」と云ふ言葉に樣々な意匠を施した、浪漫溢れる觀念としての平和を全く疑つた事がない怠慢に他ならないのであらふ。

・では、人間をして人間たらしめてゐるものとは何か。「正義とは何か」と常に問はざるをえぬといふ事、そして、おのれが正義と信ずるものの爲に損得を忘れて不正義と戰ひたがるといふ事である。(※中略)それゆゑ、人間が萬一、いかなる場合にも戰爭をやらぬといふ事になつたら、その時、人間は正邪善惡の別を全く氣に懸けぬ動物に墮してゐる事であらふ。(※中略)だが、人間は動物と異り、名譽だの眞理だの正義だのを氣にせずにはゐられない。それゆゑ人間は動植物や無機物よりも優れてゐるのだと、さういふ事が私は言ひたいのではない。正義を氣にせずにはゐられぬといふ人間の特質ゆゑに、人間だけが同類を殺すのだといふ事が言ひたいのである。(PP.14~16)

 私はこの意見に全く同意である。そして何故クラウゼヴィッツが戰爭論に於て個人間の決鬪を以て戰爭の本質を説いたのかも漸く理解することが出來たのである。人間が不正義には我慢など出來ぬといふことを、そして、その結果がどんなに暗澹たるものであるとしても人間が戰爭を手放す事が出來ないといふことを、あの知性勇氣感情の三位一體として表現したと云ふことをである。

・だが、捕へた鼠を猫が弄ぶ場合、猫は鼠の恐怖を想像して樂しむ譯ではないが、甚だ厄介な事に、人間の場合は相手の苦しみを想像しうるがゆゑに、相手を苦しめて樂しむといふ事がある。他人の不幸を樂しむ、それは人間の性なのであり、人間ほど殘忍な動物は無い。論より證據、どんな同情心の篤い人でも、いや同情心の篤い人ほど、例へばアウシュビッツにおける殘虐行爲の記録を讀み、許し難きナチスの非人道的蠻行に憤慨すれば、アンソニー・ストーが言つてゐる樣に、「他人に拷問を加へてゐる者たちに、彼等がしてゐるのと同じ刑罰を加へてやりたい」と、吾を忘れて口走りたくなるのである。(P.33)

 普段は正義の危險やら相對性など説いた人士でも、この手の殘忍さを發揮しないといふ人間はゐないと私は見てゐる、この一年程度ですら遙か遠くの小學校の集團暴行の理不盡を述べる人も、東京電力の「惡」なるものを糺彈する人士も、この手の殘忍なる欲求を口走る姿は何處にでも見られたものだからである。

・要するに、無暴力を標榜する平和主義者は、「讓歩してはならない」とか「許されない」とかいふ類の大見得を斷じて切つてはならないのである。平和主義者は常にかう言ふしかない、「正邪善惡なんぞどうでもよい、自分は他人の言動をすべてを認め、いかなる虐待をも甘受する、それゆゑどうか私に構はず放つておいて貰ひたい、私は長生きをしたい、私の娘にしても、ソ連兵の妾になつてもよい、せいぜい長生きして欲しいのだ」。(P.53)

・「最も正しい」戦争さへ憎悪するのだから、正邪善悪の別は問はない訳である。それなら、正からうが正しくなからうが、他国の、或いは他人の、言動の一切を承認せねばならぬ筈である。しかるに愚鈍なる平和主義者は、矛盾を矛盾と感じないから、そしてまた、人間誰しも良い恰好したがるものだから、おのれが不正と見做す事柄について、うかと「許されない」などと書いてしまふ。或いはおのれが正しいと信ずる事柄について、つい「せねばならぬ」などと書いてしまふ。(P.56)

 主義とは何かと考へれば、ある考へ方に一つしかない己の命を懸ける態度に他ならないものであらふ。それ故に「平和主義」と云ふ言葉はナンセンスにしかならない、すべての考へ方よりも己の命を優先する態度から主義など生じないからである。若しそれが成立つなどと考へてゐるのなら、それは平和といふ言葉に中島敦の言ふお洒落烏のやうな細工を施してゐるか、鵺のやうな觀念の化物を扱ふのに無頓着なだけなのであらふ。

・要するに、正義とは何かといふ問ひくらゐ厄介な問ひは無いといふ事なのだが、この難問に挑んで先哲が悉く挫折したのは、力こそ正義であるといふ事を、即ち「戰爭で勝つのは正しい者ではなくて強い者だ」といふ事を、どうしてもそのまま認める氣に成れなかつたからである。(P.75)

 何故に認める氣になれないか、それは人が正邪善惡を氣にしなければ生きて行けない本性を持つためである。それが無くなれば人間は忽ち人間以外の存在に成り果てるしかないからに他ならないのである。

・即ち死は吾々にとつて「最大の善きもの」かも知れないのだが、吾々は皆、死が「最惡のもの」であるかの如く思ひ込み、死者を哀れみ、死神を恐れるものであつて、それは「知らない事を知つてゐると思ふ事」に他ならず、まことに嗤ふべき迷信ではないかと、ソクラテスは考へた。知らぬ事を知つてゐるかの如く思ひ込むのは知的怠惰である。死に關する知的怠惰は致し方が無いとしても、吾々は死を恐れるが如くに侵掠戰爭を恐れてゐる。(P.85)

 欧州中世の贖宥状を売り出した聖職者を非難し、我国の一向宗の極楽浄土を迷信と非難する人間は掃いて捨てる程ゐる。しかし不可思議な事に、彼等は現代でも全く不分明な死を、まるでわかりきつた如く断ずる杜撰な平和主義者達を全く非難出来ない有様をみれば、昔の人間を迷信に取りつかれた人間などど言ふのが如何に思い上りの最たるものかと理解できる。

・弱者は衆を恃み、平等に所有する事こそ正義だと主張し、法律や習慣の力を借りて強者を縛らうとしてゐる、だが、強者は常に、ピンダロスの詩にもあるとほり、「非道の限りをなしつつも、至高の腕力によつて、非道を正義に」するであらう、さうカリクレスは言ふ。(※中略)強者は常に「自分の利益になると思つた事柄」をなすのであり、「実際に利益になるかならぬかは問ふことろではない」のである。(P.113)

 日本に於て現實主義だらうが、平和主義だらうが矢鱈に目につくのは、勝手に自分の言ふ利害得失なるものを論じて、その最後に「したがつて相手は損な事はしない」などと斷言する。相手をまるで己の傀儡とでも言ひたげな獨善を表明すること自體が、如何に思考怠惰に陷つてゐるかを無殘にも晒してしまつてゐる。

・人間とは何と厄介な生き物であらふか。ベルジャエフが『人間の運命』に書いてゐる樣に、人間は道徳的義務に忠實たらんとして却つて殘酷になるのであり、さういふ殘酷を失ふときは、嚴しい道徳的感情をも失つてしまふ。(※中略)人間は殘忍であつてはならないと、吾々は氣安く言ふが、宗教的であらふとしても、道徳的であらふとしても、人間は殘酷にならざるをえないのである。(P.131)

 人間は常にこの厄介な性質を抱へてゐるのを承知しておかないと、自分の中にある殘酷さを直視出來なくなり、自己欺瞞に陷るしかない、その場合に人間が何をしでかすかと言へば、相手を無價値のものと見做し、徒黨を組んで陰慘な私刑にするのが常態となるであらふ。

 本書は人間と戰爭に就いての極論である。それ故に問ひは眞摯なものである。その問ひかけに眞向から受止める氣が少しでもあれば本書は裨益することがあるであらふ。若し小手先の防衞論議をしたいなら、本書は全く役に立たないし時間の無駄に終ることもまた事實である。

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