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読書録其の34(内なる個人と集團)  

書名:服従の心理
著者:スタンレー・ミルグラム
訳者:山形浩生
出版社:河出書房新社
価格:(金1,300円)消費税別
刊行年:平成24(西暦2012)年1月20日 初版
(※)は私注

 今囘の讀書紹介はこちらの文庫本と成る。ある心理實驗の事を書き記したものであり、その實驗は人がどのくらゐ權威者の言ふ事に從ふかを實驗した記録である。その方法に就いては「ミルグラム實驗」を檢索して貰ふとして、私が興味を持つた箇所を取上げて見やう。

 ・実験後のインタビューで、なぜ電撃を続けたかと尋ねられた被験者の典型的な答えは「自発的にはそんなことはしなかっただろう。単に言われた通りにやっただけだ」というものだった。実験者の権威にあらがえなかったかれらは、すべての責任を実験者に負わせる。ニュルンベルク裁判の弁護発言として何度もきかれた「自分の義務を果たしていただけ」という昔ながらの話だ。だがこれは、その場しのぎの薄っぺらい言い逃れだと思ってはいけない。むしろこれは、権威構造の中で従属的な立場に固定された人々の大多数にとって、根本的な思考様式なのだ。責任感の消失は、権威への従属にともなう最も重要な帰結である。(P.24)

 この實驗前には、ドイツの例を彼等の民族性やらエートスとやらで説明してゐた手合ひが多數おり、ドイツ人の倫理觀の缺陷を論ふ者も多かつたが、ここよりそれが大きな訂正を迫られたのである。

・だがきわめて興味深いことに、多くの被験者は、被害者を害する行動をとった結果として、辛辣に被害者を貶めるようになっていた。「あの人はあまりにバカで頑固だったから、電撃をくらっても当然だったんですよ」といった発言はしょっちゅう聞かされた。いったんその被害者に害をなす行動をとってしまった被験者たちは、相手を無価値な人間と考え、罰が与えられたのは当人の知的・人格的欠陥のせいなのだと考えるしかなくなっていたのだった。(P.27)

 これを見たときに内村鑑三の「われは善なれば他人の惡を矯めんとする時はわれの極惡に陷りし時なり」との言葉がうかんでくる。私は大半の人が善良かつ脆いために、いざ他者を害するには相手を無價値の存在にしないと、神經が耐へられないのではないかと考へるのである。

・被害者の苦悶に対する責任について尋ねられると、最大の責任者は実験者にあり、続いて被害者に責任があり、自分には最少の責任を付与する。学習者についてかれは、「自分でそれに同意したんだから責任を負わなくてはならない」と言う。実験者は「最大の責任を負う。自分は単にそれにあわせただけだ。命令に従っていただけで(中略)続けろと言われた。そしてやめろという合図は受けなかった」(P.81)

 勿論のことだが、かうした被驗者達は事前のアンケートでは他者を害することなど思ひもよらず、そのやうな事態になつた場合には、その行爲を拒否すると答へた善良なる人々と言ふことを筆者は再三再四に繰返し述べてゐるのである。

・被験者は二五五ボルト(※実験における『激烈な電撃』であり被験者が受けても良い電撃より遥かに高い)で実験者に逆らったが、被害者が最初に抗議したとき以降に電撃を与え続けたことについてはやはり責任を感じている。自分に対して厳しく、自分がその内部で機能していた権威構造に責任を少しでも負わせようとはしない。レンサレア氏(※被験者のこと)は、心理学者たちが服従を過少評価(※実験前の筆者も同じ)したことに驚きを表明した。ナチ占領下のヨーロッパでの体験から、命令の遵守が高い水準になるものと予想したという。(P.84)

・この女性の実験(※二一五ボルトで実験を拒絶)における率直で礼儀正しい振るまい、緊張感の欠如、自分の行動の完全な制御は、非服従が単純で理性的な行為だったようにうかがわせる。彼女の振るまいは、わたしが当初、ほとんどの被験者が示すと考えていた行動をまさに体現するものだった。皮肉なことに、グレッチェン・ブラントは青春時代をヒトラー政権下のドイツで過ごし、若き日々の相当部分をナチスのプロパガンダの下で送ってきた。この背景が与えた影響の可能性について尋ねられると、彼女はゆっくりと答えた。「たぶんわたしたちは、あまりに多くの苦痛を見てきたからでしょう」(P.136)

 上記の二例を出したのは、この部分をどう受止めるかによつて、本書の價値がかかつてゐると私はみてゐる。世の善良な人々はきつと己の中にこの二名がゐる筈だと思ひ込みたがるのであらふが、それは眞冬に冷水を浴びせるやうだが自己欺瞞の最たるものでしかない。若しこの兩名の前でそのやうな事を輕々口走れば、彼等は哀しげな表情でこちらをじつと見つめることであらふ。そして溜息とともに「齒痛に他人は全く同情などしない」といふ道理を諦念と共に受入れるに違ひ無いであらふ。

・学習者に単語対を読み上げるときには、わざとらしいほど正確で、ほとんど高圧的な調子を保つが、これは実験者に対する弱々しく女々しい発言とは対照的だ。(※中略)一時的に体面を取り繕うが、それでもときどき、つらさを表明するのを抑えられない。自分自身に「あたし、震えてるわ」とつぶやくが、それでも学習者とのやりとりは、変わらずに形式ばった調子のままだ。(※中略)インタビューでは、学習者に与えた電撃はひどい苦痛を与えたと述べている。実験者が彼女に「試しに受けるなら最高何ボルトの電撃を受けられますか」と尋ねると、彼女は憤慨したように答える。「一五(※最低の電撃)ボルト。それですら必要ないと思いますわ。どうしてもというなら一五、でもそれでも欲しくはありません。必要ないと思います。」(P.126)

 最低の電撃すら欲しくないと述べたこの夫人は、實驗では最高の電撃(『危險:過激な電撃』で被害者は動かなくなる)を被害者に與へた人間である。この夫人は自分が如何に心優しく、立派であるかを吹聽するのであり、實驗終了までは被害者が電撃を受けてゐないことを全く信じてゐなかつたにも關はらず、數か月後のアンケートに於て被害者が電撃を受けてゐなかつた事を察してゐたと囘答するのである。私はこの夫人を見て益々人間を信頼するやうになつた。それは人間とは弱く、脆く、そして己が極めて善良なる心を持つてゐるとの願望を持たずにはゐられないと云ふ事をである。

・学習者は、被験者が本気では自分に耳を傾けていないというハンデの元で頑張らねばならない。というのも被験者の感情や知覚は、実験者の存在で手一杯だからだ。多くの被験者にとって、学習者は単に、実験者との満足のいく関係達成をじゃましようとする、不愉快な障害物でしかなくなる。その結果として、慈悲を求める学習者の懇願は、その状況における情緒上の中心存在から認められるための必要行動に対し、ある程度の不快感を付け加えるという点でしか意味を持たなくなる。(P.218)

 慈悲でこれなら抗議などすればどうなるかは火を見るよりも明らかであらふ。卑近な例だが交通誘導といふ法律上は何も權限の無いはずの、工事中の警備員の誘導する際の指圖の仕方はまさにこれである。己の誘導に從つて當然であり、クラクションでもならせば不愉快極まる表情を向ける姿は、工事中の場所では風物詩のやうに見受ける姿である。

・内心の疑惑、疑念の外部化、不同意、脅し、非服従。これは困難なる道のりだし、それを最後まで押し進められるのは、被験者のごく一部でしかない。だがこれは否定的な意味ではなく、意図的に流れに逆らうという肯定的な行動としての性格を持つ。受動的な意味合いを持つのは、むしろ遵守のほうだ。非服従という行為は内的リソースの動員を必要とし、単なる内面的な懸念事項や、ただの礼儀正しい口先だけのやりとりを越えたものへとそのリソースを転換して、行動の領域へと持ち込まなくてはならない。だがその精神的なコストはすさまじいものだ。(P.243)

 しかも、非服從以外は結局は自己辯解にしかならないのである。非服從は己が自明と思つてゐることを、根本から問ひ直して再把握することなのでそれに必要なエネルギーは途方もないものである。それが即坐に湧き上がるなどと思ひ上ることだけは愼みたいと思ふのみである。

 さて、これ以上は本書を讀んだはうが適切であらふ、人の内面にある個人と集團がそれぞれ違ふ思考形式で動くことを理解するには好適な書であり、一讀して裨益することが多いと思ふのである。
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