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或る偏屈漢の異見(貪らんがための教育か)  

 只今は教育水準も上がり、日本では大學進學率が五割に成ると云ふ時代で、十數年前の私の頃は四割ですから益々これからも進學率があがると云ふ傾きなのかも知れません。格差やら大學は出たけれどそれにたいする働き口に乏しいとも憂ひ顏で云ふ御仁も多いのでありますが、私は正直にそんなことよりも危ないと考へてゐることがあるのです。

 それは明らかに評論家氣質の素人が量産されてゐると云ふことなのであります。この智慧をつけた人間は、表面上の謙虚の衣を着けてをりますが、貪らんばかりに快樂を求めると云ふ厄介千萬な氣質を持つてをります。その不快な生態を論つて見ませう。

 先づこの者が好むのは何よりも悶着があるところです。それも大抵は身の丈にあつた問題ではなく、それこそ個人では手に餘ることが目に見へる。社會問題や政治問題などを好みにします。そこでこの人間は甲乙の兩論の惡いところを指摘すると云ふ悦を貪ります。岡目八目と云ふ言葉にあるとほり、外の人間は相手の惡い所を指摘するのは容易いことなので、甲にはかうした惡い點がある、乙にはかうした惡いところがあるとして雙方ともに惡いと指彈して、己の智慧なるものを見せ附けやうとします。

 そしてここからが更に性質が惡いところでして「素人ながら」などと謙虚な臺詞を吐いてから、己以外の誰かの懐から1兩分を出させると云ふ三方一兩損案なるものを提出してきます。これで當人は己が問題解決の仲裁をなし、善事をなしたと云ふ快を得やうとします。しかし大岡越前が偉いのは、己の懐から1兩分の損を出して、しかも仲裁相手の兩方から1兩分損させたことの恨みも引受けると云ふ態度なのであつて、己の懐の痛まぬ折衷案などをしたり顏で言ふことではありません。

 またこの者は甲乙から反応が無い間は、己の三方一兩損案に妙に氣に入つて醉ひが囘るやうに、何々といふ對象は懐の一兩損を惜しんでゐる。そのため甲乙が爭ふのだと憤つて見せます。これは勿論甲乙を思つての發言ではなく、己の考へを受け入れぬ相手の愚昧なるものを叩くことで己の智慧を誇りたいのと、己が如何に爭ひを救ひたいと願ふ義人であると思ひたひといふ快を貪ろうとします。また甲乙の一方もしくは兩方からその提案の無意味さを指摘されても恥入るよりも、聊か氣分を害したやうに「はじめに素人ながらと申しました」などと、とぼけた態度をとるのもその特徴として舉げられます。

 昔は乞食と醫者は三日たつたらやめられないと言はれましたが、只今の評論家氣質の素人は元手もいらず、頗る安易に己の智慧と善良さと義人振りを示せるといふ快樂を貪れるのだから、三日どころか、一度でもやればやめられないものでせう。かつて明治の頃に齋藤緑雨は「教育の普及は浮薄の普及なり」と述べたが、只今のこの評論家氣質の素人の横行する樣を見ると、私にはこの言葉が重苦しく響いてくる。そしてその末路が如何に悲慘かは、福田恆存が昭和四十四年の安田講堂での事件を論じてゐる際に出て來るので長くなるが引用する。

<引用開始>
 最後に安田講堂に警官隊が這入つた時の事だ。機動隊は半ば命懸けで講堂の扉を開かうとしてゐた。後詰として控へてゐる機動隊の傍には、外套の襟を立て、ポケットに兩手を突込んで攻防戰を傍觀してゐる一群の教官がをり、その囁きが隊員の耳に這入つて來る。「機動隊員は頑強なのばかり揃へ過ぎるね」とか「警官導入は矢張り望ましい事ではないね」とか、その種の仲間同士の會話である。機動隊員に「頑強」な人間を選ぶのは當然の話で、それを皮肉混りに語り合ふ事によつて國家權力の「手先」に一矢を酬いた積りの負け犬的自慰表現であらうが、場合が場合であるだけに、といふのは、自分達の無能を助けて貰ふ爲に要請した警官が命懸けで「戰つてゐる」時だけに、これは單に子供ぽい負け惜しみとして見過ごせないものがある。

 そこには自分の無能と劣弱を蔽ひ隱さうとする意識だけではなく、その期に及んでもなほ大學、或は大學人として國家權力に對する優位を保たうとする意識、或は國家社會の外にある事は固り、大學に在りながら大學の外に在る第三者としての特權的地位を保たうとする意識が働いてゐるからだ。(福田恆存評論集 第八卷 PP.269~270)
<引用終了>

 外套のポケットに兩手を突込み、自分達の不始末に對處する機動隊へ非難の囁きを發する教官達の無力な姿こそが、評論家氣質の素人の末路に他ならない。その悲慘さは目を覆はんばかりだが、どちらがこの世で多數かといへば、勿論教官達の方が壓倒多數であり、その姿に嫌惡すら感じさせるものであらふと、己の中にはあの教官連中がゐることを自覺するしかない、若しこの自覺を曇らせるのが高等教育なのだとしたら、私には高等教育とは「己を欺く術を教へて他人を貪るところなり」と考へてしまふのである。

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