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或る偏屈漢の異見(学問について) 

 三十過ぎの手習ひで毎日少しづつ漢文を讀み始めてゐる。只今は佐藤一齋『言志四録』の中の言志晩録を讀み進めてゐるが、一讀して思はず憤慨してしまつた、先祖から變はらぬ我國智識人の嫌な生態を見せ附けられたためである。引用すると下の如くとなる。

少にして學べば、則ち壯にして爲すこと有り。
壯にして學べば、則ち老いて衰へず。
老いて學べば、則ち死して朽ちず。

 この文が學(聖人の道を究める)が一生の大事を説いたとする内容の文なのだが、言語道斷としかいいやうがない。將來の御利益をあてにして人間に就いてを學ぶとあるが、それなら「壯にして爲すこと無ければ、少にて學ばず」、「老いて衰へれば、壯にして學ばず」、「死して朽ちれば、老いて學ばず」と云ふ工合になるより他は無いのであらふ。ある西洋人は、年を取つてから樂をする爲の若い時の努力を下劣な努力と斷言し、努力とは現在の自分を高みへと昇る果てしない道程にほかならぬと論ずるのと比較すれば、その落差がよく分かる。

 古言に「麒麟も老いては駑馬に劣る」とあるが、人間は時間の前に不朽を志して敗北していく姿は歴史を虚心坦懐に眺めれば、認めざるを得ないものである。卑近な例だが、私は居合や拔刀をしてゐるが、ある人が身體に屬する技はもとより、頭腦や精神に於ても老いて衰へてしまひ昔日の面影すら殘らぬ無殘な姿を晒してゐるのを見ることは珍しい事では無い。またそれは居合拔刀に限らず、定年と云ふものが存在しない分野では當たり前の光景でもあらふ。不朽などと稱して、それが出來ると稱するのは、私には己を欺くとしか思へぬのである。

 もとより絶對神を持たない日本人が、知を探究すればやがてその論理が「神はロゴスに有りとした」ところから、神そのものの領域に到達できるとした西洋人に比べて、動機が乏しいことは承知はしてゐるが、現世利益を伴はない學問を輕蔑し「それつて何の役に立つのか」などと得意氣に言ふ、實學志向の學問などの行きつく先は、基礎の強度も把握出來ず、また強化することすら考へずに次々と建増しを行ふやうなものであり、最後は崩潰することが分からぬのには暗然たる心持がする。

 ここで、氣休めに良く西洋と日本は違ふのだから、日本は西洋學問が身につかなくても仕方が無いと云ふ半可通智識人が良くいるが、かうした發言を聞くと冗談も休み休みにしてほしいと考へずには居られない、このやうなのは言論が有效なのは、我國が西洋より強靭ならばこそいへるものであつて、明治はもとより平成の今でも一貫して不利であり周囘遲れな日本には、理解出來ない西洋學問を大いにやらねばならず、周囘遲れの事實に忸怩であらふと附きあふよりほかに道は無い難儀なる道だとつくづく思はずにはゐられない。

 日本に必要なのはこの難儀を自覺した上での痩せ我慢に他ならないと考へるところである。そして明治から引繼がれた大きな課題としてそのままとなつてゐる、「和を以て尊しとなす」で構築された世界以外の人間が儼然と存在することを理解することが自他ともに目に見える形で把へることが出來る學問を構築することが、日本獨自の學問に課せられた使命ではないかと考へる。是に取組まない限り、昭和初期のやうな破綻を、再び私の世代で見る破目に陷ることになるのではないかと懼れるのである。
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この記事に対するコメント

「將來の御利益をあてにして人間に就いてを學ぶとあるが」とのご指摘ですが、一斎先生はそのようには言っていないと思います。先生の言わんとする処は「将来大事をなそうと思えば、年少の頃から老境に至るまで、常に、しっかり勉強して準備をしておきなさい」と言っているので、「将来大事を為すこと」が「ご利益」などとは思ってもみないことで、先生は苦笑されているかと思いますが。

中村和滋 #- | URL | 2012/06/07 11:15 * edit *

御利益無しの末路

中村樣

コメント有難うございます。

 さて、佐藤一齋がそのやうなことは述べてゐない「將來大事をなさうと思へば、年少の頃から老境に至るまで、常に、しつかり勉強して準備をしておきなさい」との意ですが、では假に將來大事をなす見込みがない場合には、聖人の道を究める動機が何處に殘されてゐると云ふのでせうか、日本人が明治から只今に至るまで、佐藤一齋があれ程大事にしたはずの聖人の道たる學が、衰微するばかりといふのは一體全體どう云ふ理由なのでせうか、私には將來大事を爲すためには、別に聖人の道を學ぶ必要が無いと世人に判斷されたためであり、畢竟それは世人には聖人の道も「將來大事を爲すといふ御利益」目當てにしたものだと云はざるを得ません。

 佐藤一齋が泉下で苦笑するなどは、まだ將來大事をなさんとするものが聖人の道を究めるのが當り前だと信じられてゐた頃の餘裕があればともかく、只今の貧寒として顧みられない現状ならば、泉下で茫然自失の態か、只管長歎息してゐるしか私には思ひません。

枯山

林 枯山 #- | URL | 2012/06/08 06:17 * edit *

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