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或る偏屈漢の異見(戦略と倫理) 

 過日上野で開かれた催しのようなものに参加した際に作成した発表用の文章である。備忘録の趣があるが自分の考えを整理するために公表してみようと思う次第である。

 当日の題名で私が選んだのが「そもそも戦争とは一体何?なぜわれわれはそれを戦うのか」というものであった。まず私なりに手を付けたのが戦争の定義である。そこで私は戦争を『我がほうの意志をある政策を以てする、直接・間接なる力を用いることで、相手の意志を屈さしめるんとするある集団間の行為である。』というように定義したのである。

 上記の定義において大事なのは、いままで戦争と倫理を取扱う際にともすれば混乱の原因となった、個人と集団という点を分離することに力点を置き、そして斉藤浩の論文である「権力とは餓死と不慮死の可能性の遠さ」という定義を取り入れて、生物界においての個体完成度においては劣弱なヒトが生み出した社会集団という観点に私は着目したのである。

 人間が社会という発明をしたというならば、それは何を目的としたのであろうか、私はこれは生存を目的としているのだと捉えている。旧約聖書のサムエル前書に王を戴くことを組織と神との契約改定時において、その障害(食糧も子女も良質なるものを差出す上に、その人間にかしづかねばならない)を認識した上でもなお当時の司人(さばきつかさびと)達は、ペリシテ人との戦いにおいて集団の生存そのものが脅かされた彼等が王を戴いたところは実に示唆に富んでいる、また近いところでは明治維新というのもまた我国の生存が海上により保障されなくなった時に発生したというのもまた同様のことであろう。

 そもそもが社会存在としての組織や集団が消滅を目的にすることは無い、あったとしてもそれは西譬におけるように「例外は原則を確認する」というものに収まるものである。そしてその集団という存在を、前記の斉藤浩は「安全・安価・有利」という尺度により行動を規制されるとした。私はこれを前提として生存に対する比重が重い組織が、個人に対する規制もまた大きくなると捉えているのである。これはかつて我国の水利の大字小字の単位となった農村単位と村八分の拘束力は単位内における成員の生死を分けるものであったし、欧州における直接農村経営を実施していた中世の領主や教会の拘束力もまた、司法を決して外部に委託するようなことなどしなかったのである。

 佐原真は古代の戦争を「考古学事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」と定義しているが、ここには人間が社会という発明をなしてから後に戦争もまた発生していることがあげられている。これは戦争が人間社会に内蔵されたと私は考えているのである。ただし人間が発明したものだとして安易に交換可能と思う人士がいるが、それは人間により発明された言語というものが何故交換可能でないかを、真剣に考えたことが無い知的怠慢の輩なのであろう。

 ここで後段の話に入る、なぜ我々は戦争を戦うのであろうかという問いに応えることとなる。つまりは戦争の起源(ここではそれを原因と前置きして議論を進める)についてである、トゥキディデスはこれを「利益・恐怖・名誉」という三面を起源として考えている。これに私は同意した上で、一つ付与するものがあるそれはその頭に「集団の」という文字がつくということなのである。つまり集団の「利益・恐怖・名誉」なのである。

 私は社会集団というのは生物としては未完成なヒトが、創造した仕組みに端を発しているとは前に述べたが、その集団間において当面の「餓死と不慮死」からの生存が保障された場合には、次にあるのが未来の「餓死と不慮死」の間合いを遠くするという行為となるのである。それには集団間内部の規定の改善や手段の洗練がなされるし、その最たるものはといえば意思疎通というのを集団間の円滑化には欠かせない言語が代表されるものであろう。その集団内部間の摩擦を減少させるあらゆる禁忌や推奨の洗練(これはシステムとしての最適化とも捉えられる)を進めた暁には、その集団内と集団外の存在の差を広げるのは火を見るよりも明らかであろう。

 その禁忌や推奨の纏まりを文化(これは教養と世間知という概念と関連性を持つものである)という概念で呼びうるものである。この体系は外に拡大すればするほど集団にとっては間合いが広がるものなので、全く別の社会集団とぶつかるまでは、拡大をするのが「安全・安価・有利」というところから導かれるものとなる。力が強ければ当然その外部集団を飲み込むであろう。それに失敗すれば「危険・高価・不利」となるからである。勿論相手集団が強ければそれが一時の境界線となるであろうが、どちらかの集団の力が隔絶すれば弱体化もしくは強大化した集団の慣性は解体もしくは拡大する方向に向かうのである。

 邪悪な個人や国家やシステムがあるから戦争が起こるとする倫理上の見方には、このどうしようも無い生存そのものを目的としている社会集団のエゴイズムという現実を見落としている。個人はある集団にとっては一部なのであり、断言するが集団から見て戦争には倫理などは存在していないのである。集団としての社会は上記のように集団の慣性で動くものだからである。しかし、蟻や蜂のような高度なる社会性にまで至らなかった人類には、厄介極まる問題が横たわっている。先ほど私は個人は集団の一部と述べたが、逆もまた然りで一方の個人もまた集団に対して自分の一面程度だと認識しているのである。

 個人という存在は突き詰めれば「正義はなされよ、よしや世界が滅ぶとも」という一言に表現されている。そこには組織の生存など全くかえりみないほどに強い倫理がある。その倫理のためには戦争すら全く辞さない人々がかつていたことは、歴史を紐解けば容易に見いだせるであろうし、今においても正戦論は『余人はしらぬがこの吾は』というほどの我をもつ西洋人(日本はここまで我が強く無く済んだのは僥倖といってもよい)においては健在なのである。人間には個人の面と集団の面との2者の間の対峙を内に抱えている。集団としては生存のために戦争を分離するのは無理であるし、かといって個人ももとは集団間の円滑化にあるはずの倫理を絶対化した挙句、その倫理のために集団に強烈に働きかけてその価値を踏みにじる他の集団を加罰して正義が果たさなければ決して満たされないのである。

 もし戦争が無くなるとしたら、私が考えられるのは2つの道である。それは人類が蟻や蜂のように今よりも高い社会性をもつことで、人間の個人領域を縊り殺すか、はたまたドイツのニーチェのように個人が「超人化」することで、人間の社会領域を根絶やしにするかという道なのである。いずれの道も私にとっては、人類は今とはまるで別の生物としかならないように思える。このような世界によって仮に私は戦争が無くなろうと、理想の世界と思うような酔狂な考えは持ってはいないと思うばかりである。
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