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備忘録1 

先の大戦時のまさに最後に発生した「宮城事件」というクーデター事件があったことは、それなりに知られているが、その事件が二・二六事件のような司直の捜査も行われないまま曖昧に処分されたことは、以外と知られていないのが現状です。そのためか戦後も六十星霜が経過した今日では、我国での悪癖の一つたる「公刊(官庁)資料第一主義」による弊害があらわれてきました。その弊害とは端的に言えば、当事者の証言する事実がこうした官庁資料と異なる場合に無理矢理に終戦直後のゴタゴタに出来た出来の悪い資料にあわせてしまう点です。

※私のこの事件における立場を一言でいえば「何がわからない点かを明確にしたい」という点に尽きます。

さて、前口上はこのぐらいにして今回の資料は、塚本清『あヽ皇軍最後の日』(非売品)昭和32年版になります。
※著者は昭和20年当時には田中静壱東部軍司令官の専属副官だった人物です。
※本では正漢字ですが、表記上現代漢字にしております。
※大将は原則、田中静壱を指します。

・八月十日の午後である。フィリピン時代から大将と親交のある毎日新聞社の狩野近雄氏が軍司令を訪れて、昨夜重要閣議で決定したポツダム宣言受諾の情報を伝えた。(中略)大将は直ちに車を駆って日頃から大将の最も信頼されている第一総軍司令官杉山元帥のもとに訪れ、この情報の確認を求められた。(中略)総軍から帰られた大将は、私の部屋で待っていた狩野氏を軍司令官室によび入れ、ニコニコしながら、「杉山閣下は、そんなことはないと否定されたよ」といわれた。(中略)狩野氏が軍司令官室から出て来られると、しばらくして私に対して管下の全軍団長を非常召集する命令が下された。翌十一日正午、全軍団長に、本土決戦を前に部下全軍の掌握を厳にする旨の烈々たる訓示がなされた。そして当時としては異例の午餐の食膳には酒が一本づつ供せられた。(pp50~51)

・八月十四日の朝六時。阿南陸軍大臣から田中軍司令官に電話がかかって来た。「至急会いたい」ということであった。「こんなに朝早く大臣が私呼ばれるということは唯事ではない。ひょっとすると陸軍省の若い連中が何か動いているのではなかろうか」なにかしらの予感を胸に、軍司令官は先ず第一総軍司令部に杉山元帥を訪れ、次に陸軍省に行かれた。大将の予感は的中した。陸軍省の若い幕僚連中が、阿南陸相に戒厳令を強請し、軍司令官にもその準備を頼むというのである。大将は即座に、静かな口調ではあったが厳然といわれた。「このような重大な問題は、陸軍軍人だけの命令では出来ぬ。戒厳のためには畏れ多くも御勅裁を仰がねばならない!」(p59)

・その夜(※8/14)である―――。軍司令部内にある軍司令官の居室の、ソファ身を埋めて、何事か思案をつづけられる司令官を、訪問したのは、次男の俊資少佐であった。(中略)「お父様は終戦を知っていられたのですか?」「いや、知らなかった。本当の決定は今日の昼はじめて知ったのだ……。昼までは戒厳の計画をやっていた。今朝六時陸軍省から電話があったよ。先ず杉山元帥を訪ね、わざと時間を遅らせて大臣と会ったよ。若い連中が何をやらかすかわからんのでなあ―――。」
・「われわれは一体どうすればよいのでしょうか。参謀本部の総務課の高級参謀は、米軍は本屋横浜地区に上陸し得る距離にある、最悪の場合は、米軍の戦車は明日中に市ヶ谷台に到達する情勢にある、一切の書類を焼却せよと、石油を分配したりしていますが―――」
・十一時を少し廻った頃―――。陸軍省からの電話で次のような報告が入ってきた。「陸軍省並びに参謀本部の一部将校は明十五日、正午に行われる天皇陛下の終戦の玉音放送盤を奪取して、陛下の御聖断をひるがえし奉り、徹底抗戦を行わんと、クーデターを計画している模様である」すかさずこの報告は、幕僚を通じて軍司令官のもとに―――。「塚本副官!憲兵司令部と陸軍省に緊急手配!」報告が終った瞬間、大将は即座に至急命令を発せられ、司令部の内部にあわただしく緊迫感が流れる。
・そして真夜中。「閣下、近衛師団が不穏の情勢にあります。先程、私が所用で近衛師団に電話しましたところ、古賀参謀がいきなり近衛師団は決起しました、是非軍もお願いしますと……申しますので反問しますと、どうやら陸軍省の若い連中が来て、森近衛師団長に面談し、その決起を強要している模様です」緊張して頬をこわばらせたまま入って来た作戦主任の不破参謀は、このように報告したのであった。(pp63~67)

・午前二時―――である。(※この前に近衛師団参謀長水谷大佐より師団長殺害の報告あり)息づまるような空気の中に、近衛第七連隊の皆美大佐が、参謀とともに軍司令官室に入って来た。「只今、電話で師団参謀から、重要命令を下達されましたが、不審の点がありますので、万一の場合を考慮して、真偽のほどを問合せに参りました。……」と報告するのである。(p74)

・(※田中軍司令が乾門へ芳賀連隊長と面会していた時)―――と、その時、一台の自動車が、フルスピードで歩哨線を突破し、乾門内に突入しようとして来る。「塚本、あの車を止める!」田中大将は厳しく命令する。「はッ!」と答えた私は、その車に立ちはだかり、「止れ!誰だ!」と誰何したのであった。その車から、転げるようにして下り立ったのは、陸軍省の軍事課員三名(※荒尾大佐、井田中佐、飯尾少佐)であった。その一人には、生々しい鮮血が附着している。師団長の死骸を片附けたための血か、それとも殺害の場に居合せての返り血を浴びたものに違いはなかった。「閣下、私どもは近衛師団の指導に参りました。どうか入らせて下さい」と嘆願するのである。(p82)

・宮城前広場には、終戦の放送を聞いて、続々と集って来る人の群があった。大将はじっとこれを見つめていた。座して砂利に頭を伏せる者あり、立ちたるまま黙祷を捧げている者あり、君が代の合唱も聞え、時折悲痛な声で、天皇陛下万歳と嗚咽慟哭の声はさしもの広場を埋めつくしていた。(p86)

不明点
①8/14の2300頃にあったとされる陸軍省からの近衛師団決起通報が、時が経つに従って関連書籍から姿を消すようになる。
②鮮血を服に浴びているはずの井田中佐は、当時の供述では殺害現場すら見ずに直ぐに東部軍司令部に向ったと主張している。
③下村海南氏や著者及び絵内氏のように皇居前広場に多くの人々が参集したことを印象深く取り上げているが、近衛師団の北畠大隊長の著作にはこのことについて全く触れていない点で、彼等は一体この時間何処に居たのかよくわからないところがある。
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