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読書録其の32-5(自由の扱い難さについて5) 

それでは、前回からの続きに入る。

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 以上の日本的倫理は、もちろん西欧にもあり得る。ただしそれは家族内の調和の倫理であり、それは、その存立自体を目的とする結合であって、一つの目的に対応する組織ではない。では、この日本的状態は、前述の自由討論(※フリー・トーキングとルビ)によって、打破し得るであろうか。理屈からいえばできるはずである。確かに「自由」という概念と「組織」という概念があればこれを打破できるし、第一、はじめからこのような組織の家族的結合は起こらないはずである。

 だが実際には、以上の日本的平等は根強い伝統であって、これを無視した場合、それは伝来の教義を無視したに等しく、伝統的な"人間への価値観"を蹂躙したことになるから、これへの反発は決定的であり、それを行った者は抹殺されねばならない、という結果すら生ずる。 日本における暗殺は、森有礼(注:初代文部大臣、教育制度の基礎を固めるが、言動が欧米的との批判もあった)の暗殺以来、ほぼ、この伝統的価値観無視への反発から起こっている。それについては今までも取り上げたが、ここでは、昭和テロリズムの先駆者、安田善次郎(注:実業家。安田財閥の基礎を築く)の暗殺者朝日平吾の「革命の目標」を記すにとどめよう(小島直江氏の『奸商を葬った"死の叫び"』の要約による)。

 (一)奸商(悪くてずるい商人)を葬ること。(二)既成政党を粉砕すること。(三)顕官(高官)貴族を葬ること。(四)普通選挙を実施すること。(五)世襲華族世襲財産制を撤廃すること。(六)土地を国有となし小作農を救済すること。(七)十万円(※大学卒の初任給が約100円の頃)以上の富を有する者は一切を没収すること。(八)大会社を国営となすこと。(九)一年兵役となすこと。(※当時の兵役は2年)

 彼の掲げた目標は、実は、その後の暗殺者の掲げた目標(二・二六事件も戦後の爆弾魔も含めて)の原型といえるもので、以後の声明もだいたいこれを一歩も出ていないものが多い。
そしてそこには常に、暗殺もしくは"革命"終了「以後」の展望がないのである。なぜこうなるのか。そこにはさまざまな要因があるが、これら暗殺犯人の獄中記などを読むと、そこになるものは、組織的家族主義に構成された社会は実に強固で、それは、非常手段によらねば絶対に動かし得ないものだという、一種の、暗い絶望感が常に底流として流れている。

 そして、そう構成された社会は常に、戦前・戦後を通じて「国体の本義に反する」いわば、日本の社会にあってはならないものと、規定しているのである。それは彼らの動機が常に「天の声」「天意」「天誅(注:天罰)」といった一種の絶対制を背景としているのでわかる―――もっともこれは戦後は、平和と革命の大義となっているのであろうが―――。そしてそれは「血盟団事件(注:一九三二年に右翼団体が起こした団琢磨らへの暗殺事件)判決理由書」における彼らの動機にも表れている。少し表現を変え、漢字をかなに改めたら、戦後における同種事件の動機と人びとが読み違えるであろうと思われるほどのものである。

 これは、この基本にある考え方が、戦前・戦後を一貫する普遍的なものであること、また、ともに組織という概念も、自由という概念もないことを示している。「・・・・・・支配階級たる政党、財閥、特権階級は腐敗堕落し、国家観念に乏しく、相結託して私利私欲に没頭し、君民の間を疎隔し、目前の権勢維持に努め、事毎に国策を誤り、為に内治外交は失敗し就中農村の疲弊、都市小中商工業者及び労働者の困窮を捨てて顧みず、幾多の疑獄事件は踵を接して起り、国民教育はその根本を個人主義に置き、国体の絶対性につき何等教うるところなく、知育偏重に流れ徳育を忘れ、延ては国民思想を馴致する(注:しむける)等、政治経済思想教育外交等あらゆる方面に極端なる行詰りを生じ、このまま放置するにおいては国家は滅亡の他なく、・・・・・・」

 すなわちここではすでに「思考の自由」は否定されており、従って、他のいっさいの、自由なる発想に基づく実際的改革も、現実には存在しないのである。ただ彼らに共通することは、「こわしてしまえば、自然発生的に、新しい秩序ができる」という一種、不動の信念なのである。この信念こそ、実は彼らがどうにもできないと感じている、組織的家族をつくりあげているその"信念"とまったく同じものである―――同一の伝統に従っているものが同一になるのは、当然といえば当然だが―――。

 このことは、もし彼らが自らを組織化して大規模に事を運べば―――いわば昭和維新が完成されれば―――完成して出てきたものが結局同じものであることを予見していた。そしてその苦しい実験のような形でできた「軍部政権」はまさに同じもの、否、もっとそれが極端化されたものであったことに、表れている。これは、「一五年周期」を何回繰り返しても、経済的体制が「いわゆる自由主義」から社会主義に変わっても、同じことであろう。(PP.209~213)
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 私が覚えているだけでも、上記の朝日平吾式の議論は、細川政権誕生、社会党連立政権誕生、構造改革論とIT革命論の流行、グローバルスタンダードの流行、小泉郵政改革選挙、2年半前の民主党圧勝選挙、そして近年の大阪都構想選挙、いずれもの何らかの既得権益打破とそれがなされれば、自然と上手くいくことを暗黙の前提としているとしか思えない、極楽トンボな改革論議は常にセットで議論されていたことを思い出す。そしてその時にその極楽トンボ振りを指摘する人間の自由などは一切認めず、いともたやすくそういった人々を「改革」への賊徒か反動か愚鈍なる手合いと見て好き放題に罵詈讒謗をするか、完全に無視するかどちらかしかしないのが現実(私自身も前者は無いかもしれぬが、後者なら間違いなく何度かした覚えがある)であった。

 いま新古書店で廉価で売られたこの手の改革本を、虚心坦懐に見れば私の言っていることが虚偽ではないと理解できるであろう。しかし、この甚だしいエネルギーの浪費を続けている余地は日本ではもうほとんど残っていないというのが現状(昨今騒がれているギリシャはこの段階はとうに過ぎて、方向転換の余裕など全く無い)であると認識している。今は希求されるほど自由思考と自由討論が必要な段階に来ているのである。もし今この時期をまた日本社会の不滅を前提にしたような「既得権益打破と極楽トンボ改革案」などに浪費してしまえば、その先は以下のような悪夢としか呼べなくなる状況に陥る蓋然性が高いと考えている。

 「そしてわれわれが近づきつつある年齢分布から見て、四〇歳以上の多数者がやがて自分たちより若い者に命じて自分たちのために働かせようとしても無理からぬことになる。こうした点にいたって、ようやく肉体的に強い人たちが反抗をおこし、老人たちからかれらの政治的権利と扶養を受ける法制上の要求を奪いとることになるであろう。(中略)もしこれが前もって計画されたインフレーションの程度であるとすれば、結果的に今世紀末に引退する人の大半は、若い世代の慈善を頼りにすることが確実である。そして究極的には道徳でなく、青年が警察と軍隊をもって答えるという事実が、問題を解決するであろう。自分自身を養いえない老人の強制収容所が、青年を強制するしか所得をあてにすることのできない老人世代の運命となるであろう。(ハイエク『自由の条件Ⅲ』p.61)」

 もし、上記の私の杞憂を笑い飛ばされないのでしたら、本書に書かれた日本人の陥る思考窒息状態をもたらす要因や、その自縄自縛についての自己把握に裨益すること大きい著作と考えますので一読をお勧めしたく思います。

第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2
第三回 自由の扱い難さについて3
第四回 自由の扱い難さについて4
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テーマ: 読んだ本。

ジャンル: 本・雑誌

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