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読書録其の32-4(自由の扱い難さについて4)  

では、前回からの続きとなる。
どのようなものに吾人は縛られているのかのところとなる。

※原文では調和には「ハーモニー」を正当には「ジャスティス」とルビがある。

 われわれの世界は、自己の発想を内心で自己規制し、その規制された発想を、調和を考慮しつつ、相手によって自己規制しつつ公表する世界である。従ってここで探究すべきものは、この規制がいかなる原則によって行われているかであり、それが、結果においてわれわれの行動をどのように規制し、その結果どのようにして組織的家族ができあがり、それが社会をどう規定しているか、という問題であろう。

  われわれが自由を自己規制する大きな規範はまず前述の調和であり、次が平等である。この概念は日本にも西欧にもあり、いずれの世界であれ調和と平等が求められることは、否定できない。しかし前述のように、西欧にはその前に正当(注:公正)という意識があり、この正当に対応する形で調和も平等も要請される。調和は前述したから、ここで平等を取り上げれば、新約聖書以来の彼らの「平等に・・・・・・」という概念は、むしろわれわれの公正を前提とした平等、すなわち「公平に・・・・・・・」に近いかもしれぬ。だから今の日本では、公平も平等も同じように使われているが、前者を一応、正当という概念に対応する平等という意味にとろう。

 たとえば一つの正義がある。それに基づいて人は処断される。仮に「殺人者は死刑」という正義が平等に人びとに臨むとき、それはすべての人に対して公平であらねばならない。「神の義」という言葉は、最も原初的な意味では、この点においてまったく公平な客観的正義の意味であり、それは等しく万人に平等に臨むはずである。もし平等に臨まないなら、それはもはや「義」とは認めがたいのであり、かつ、人は神の前に平等とはいい得ない。従って、もしこの世において逃れ得た殺人犯がいるなら、それは来世で罰せねばならないか、もしくは終末の時において最後の審判で罰さねばならない。そうでない限り、彼らはそれを平等とは認めず、それがなければ調和とも考えない。
 
 この考え方はもちろん、前述の輪廻転生と同じように、人びとが、客観的な「義」という概念が存在する―――個人からも団体からも離れて―――と考え出したのがはじめてであり、すべての人間は、その「不動の基準」を一種のメートル原器(注:一メートルの長さを示す白金イリジウム合金製の旧標準器)のように考えて、これに合せた尺度を尺度として生きなければならない。そして「公平」を計る尺度はこれだけであって、人びとの恣意であってはならない、とする考え方である。従って、何らかの形の客観的審判が存在し、それが公平に適用されない限り、公的な義はあり得ないと彼らは考える。そして義に基づく善悪という規範があり、それがもし平等に適用されるなら、その適用が今であれ、終末であれ、公平に適用されない限り、善悪という規範そのものは存在しない、と彼らは考える。
 
 この考え方は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という考え方とは相いれない。こう考えることは、彼らにとっては善悪という規範の放棄であり、正当化の廃止にほかならない。そしてこれは、彼らの見方からすれば、正当・善・悪といった概念の放棄であり、一つの義を中心とした組織的世界、すなわち組織神学的な思考の消滅となるはずである。これは、人間を、一つの倫理的組織の中で把握することを拒否する。いわば一つの倫理的規定が、客観的な体系の一環として存在し、すべての人が平等にそれを規範とすることを前提としたいっさいの世界が、すなわち、それを基にした組織の世界が崩壊してしまうことである。
 
 この原則、いわば組織神学ないしは組織的思考の排除は、究極には、いっさいの現実の組織を破壊するか、空洞化するか、変質化するかしてしまう。たとえば一つの組織が、ある目的に対する正当化された位置にあり、それに基づく組織内の基準は、「神の義」のごとき意味において公平に成員に作用しなければ、それは組織の自己否定になる。簡単にいえば、勤務を評定するなら、厳密な客観的基準に基づき公平にそれが適用されなえければ、その組織は、少なくともその目的に対して自己を正当化できなくなる。
 
 働いても働かなくともすべて「平等」は、この基準からいえば、罪を犯しても犯さなくてもまったく同じというに等しい。最大の完全な不平等になるわけだが、日本では「勤勉なおもてボーナスをもらう、いわんや怠惰をや」で、すべて平等に"救済"されるわけである。この救済が逆に一つの調和をもたらし、それがその組織を組織的家族と化し、逆にそれが組織内の他の要素を強化する場合はあり得る。ただこの強化は、組織の目的への正当性は失う。だが、この結合によって組織は植物組織となっても存在し、倒壊するその直前まで、はっきり立っている。(PP.206~209)


 学生時代の頃図書館で良く西暦1970~80年代初頭の商社マンの体験記をいくつか読んでいるときに、外国人と話していて「ところで君の信仰はなんだ」という問われてその人は質問の意味が分からず素直に「特に信仰はないけれど」という答えをして、相手が驚いた眼でこちらを見ていたというものや、もう少し突っ込んで聞いてくる場合は「しかし、貴方は自分を律しているし、約束も違わないし、何より人間として素晴らしいのだが…」という困惑気味の顔を向けてきたという記述を読んで、異国の人は妙なことを聞くなと思ったものであった。そしていくつかの書籍には西洋人は「無宗教や無信仰を蛇蝎の如く嫌う」という書を読んだことはあれど、完全に聞き流していたのが私の実際の姿であった。



 それから歳月は流れ、妙なことから文語聖書を読みだしてしまったときに、出エジプト記、申命記、ヨシュア記などに目を通すときに何か強烈な違和感を覚え、その漠然とした違和感を抱いていたところで山本氏の上記の記述を読んでようやくその恐ろしい前提を知ることができたのであった。上記の商社員氏へのある問いかけの意味は私の偏見溢れる意訳をすれば「あなたの逆鱗はなんですか、それを教えてください、私はあなたと親交が長く続くのを欲していますから、絶対にそれに触れないように努めますよ」というものなのである。人は土足で自分の掟を踏みにじられるのを決して許さない、それは相手が故意でなかったとしても、正義の念はその人間を極限に不寛容にして牙をむいてくるからである。彼等は血にまみれた宗教戦争でそれを知るゆえにこの問いかけは切実なものである。

 彼らは北極星の如く不動の基準から己の規範を導きだして、自己の行動も組織をも規定している。そのため相手もそうだと思い込んで上述のような問いを向けてくる。彼らを不寛容だと思うものもあるであろうし、嘲笑うものすらいるかもしれない、もしここで「欧米不寛容、日本寛容」としめくくるならメデタシメデタシなのかもしれない。だが残念ながら、この世はそんな目出度いものでは無い、自覚せぬ我国に潜む不寛容とそれが生み出す問題とはなんなのかについて次回触れていきたい。

第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2
第三回 自由の扱い難さについて3

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テーマ: 読んだ本。

ジャンル: 本・雑誌

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