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読書録其の32-3(自由の扱い難さについて3) 

前回に続き今回は、自由討論(フリートーキング)の具体説明に関する部分の紹介をしてゆく。

※以下の引用文は自由討論の箇所にルビでフリートーキングがふってある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これは新聞批判でも記したが、以前、キッシンジャー(注:アメリカの元国務長官、国際政治学者)が「日本人記者はオフレコの約束を破る」といった意味の発言をしている。当時の新聞を読むと、彼が何をいっているのか記者にも編集者にもわかっていないように思われる。

 彼は「自由討論」の権利すなわち、彼らの考えでは、人間のもつ基本的権利の一つを侵害しているといっているわけである。 この「自由」という概念が、実は、われわれにはない。だがこの概念の底にあるものはおそらく「自由な思考」と「思考の自由」という概念であろう。そしてこれが「自由」の基本のはずである。

 確かに人間は、さまざまのことを考える。否、絶えず妄想を浮かべているといったほうが適当かもしれぬ。「自分の妻の死を願わぬ者はなかった」とか「上役を打ち殺してやろう」という衝動に駆られなかった者はいなかったなどという物騒な言葉もあるが、事実われわれの頭脳の中は、一瞬後にはおそらく自分で否定するであろうと思われる、あらゆる種類の思想も妄想もうずまいている。

 人は、この"自由"なる思想・妄想に対し社会的責任を負う必要はない。もし、この思想・妄想がすべて明らかになれば、人間の世界は成り立ち得ない。いうまでもないが新約聖書は、この思想・妄想は神に対して責任」を負うと規定し、「色情をもって女を見た者は心の中ですでに姦淫した」と記している。 「心の中で姦淫している」男女は日本でも多いと思うが、これが、中世のある時期のように、社会的処断の対象となったら、大変なことになるであろう。
 
 自由主義の基本とは、その人間がいかなる思想をもとうと、それによって処断されることがない社会、いわば「思考が解放」されている社会であって、「脳細胞の一つ一つ」を、ある種の徴候から監視して規制しようとはしない社会のことである。
 
 いわば共産主義が立派だと考えようと資本主義が立派だと考えようと、いっさい、自由なる世界であって、その思考に対して何ら社会的責任負う必要がない世界である。―――端的にいえば「そんなことを考えるのはもってのほか・・・・・・」という考え方が存在し得ない世界であろう。

 そして人間がこう考え得るに至るまでは、長い長い「思考解放の闘い」の歴史があった。ただわれわれの世界は、キリシタン弾圧以後、そういう考え方はいっさいない世界(※"もの"とルビ)となった。 いうまでもないが「自由討論」という概念は、この各人がもつ「自由なる思考」を自由に(ということは責任を問われることなしに)出しあおうということである。

 極端な言い方をすれば数人がいっしょになって「自由なる妄想」を出しあい、それらが常に「いまいったことを一瞬後に自ら否定してもよい状態」で語りあいつつ、ちょうど各人がそれぞれ、さまざまに思いめぐらしつつ一つの結論に到達する過程を、数人で行おうという一つの「自由なる思考」の過程である。従って、いまの結論はすぐ否定されるかもしれず、さらにこの否定はまたすぐ否定され、別の結論に導き出されるかもしれぬ。

 こういう「自由討論」の継続性を、ある時点で故意に打ち切った形にして、「あの男はお前など死んでしまえといった」という形で発表すれば、それは一種の「自由への侵害」であり、「自由討論」なるものをいっさい認めないことになってしまう。
 
 キッシンジャーの言葉は、日本人の新聞記者には「自由討論」とは何かという認識がない、いわば「自由」ということの意味を知らないから、その点に留意しないととんだことになる、といった意味の発言と私は理解するが、確かに、こういった「自由」という概念は、われわれの世界にはない。

 従って新聞が、国会の討論に内実がなく、言質の取りあい、言葉尻の取りあい、それを逃れる答弁術に終始していると批判したところで、この状態が改善されるはずはない。というのは新聞の態度も基本的には同じであって、同じことをやっているからである。そのため、自由な発言はあり得ず、討論は常に成立し得ない。

 そして、この最も基本的な自由が認められない世界では、まじめに自由を取り上げれば、聞いた人間が、投書者宮下正一氏のように「思わず笑い出す」のが当然である。いわば、言論の自由が実際には存在し得ないのだから、その他の自由も存在し得ない。そしてこの前提がない社会で「自由意志に基づく選択」などどいっても、その本人がいう「意志」がはたして自由なのか、何らかの規制―――「これが自由だ」という形の規制も既成の一種に過ぎない―――をうけているのか、だれにもわからない。

 そしてこの点が明確でないから、共産圏を見学してきた人が、「共産圏にも自由があるのか」という質問をうけた場合の返答が、実に面白い。たとえば中国の下放(注:文化大革命のときなどに、都市部の青年層を地方の農村に半強制的に送り、各種の格差を解消させようとした運動)が問題になったとき「これはあくまでも本人の自由で、本人が決心するまで周囲で説得するだけで、強制ではありません」という面白い返事になっている。

 こういう返事ができる人が口にする「自由意志に基づく選択」という言葉ははじめから意味がない。いわば「共産主義より資本主義がいいなあ」と考えることは「自由」で、それを「自由討論」の場で「社会に責任を負うことなく」自由思考ないしは妄想の如くに発表し得て、その上での自由意志に基づく決断でないなら、自由という言葉ははじめから意味はない。

 そしてこれが意味ないとは考え得ないから「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからない」がしかし、自由主義とは資本主義だという断定が、いとも簡単にできるのである。日本は確かに資本主義の世界である。しかし、上記のような意味での「自由主義」の世界ではない。(PP.202~206)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 随分長い紹介になっているが、私にはこれにつけ加えるところはほとんど持ち合わせていないし論旨に賛同をするものである。ただ人というのは案外忘れやすいだけでなく、あろうことか「自分は過去とは決別している」やら「過去に囚われない」とかを軽々しく言い放つ御仁があちらこちらで見かける(その同じ御仁が良く『歴史の教訓』などというのを真顔でいうから不思議なものだが)ものなので、36年前の言説が今でも変わらず我国でも有効なことをあくまで愚生の蛇足として述べてみたいと思う次第である。

 昨年、少しだけ世の中を騒がせた「ウィキリークス騒動」の事はまだ記憶に残っていると思うがこれに対して我国での取り上げた中に、ある外交文書の一群の悪口雑言や妄想箇所を指摘して意義ある行為だと主張していた人々が存在し、またある人々は国際関係の赤裸々なる事実が白日に晒されたという意味で偉業だと持ち上げる人士もいた。

 そしてここには、一時外国の評に「ウィキリークス」の自由侵害について懸念を述べたことはほとんど耳に入っていない姿だったのが偽りのない姿であった。懸念を述べた振りをしていても自己の政治立場を補強するものさえあれば、その意義は高く自由の犠牲など大したことがないとする評者もしくは、沈黙を守る評者が多いのが目立った。

 彼等が普段どんな言説を述べていようとも、上記の「自由討論」に対して価値を置いていないことというのは今の我国でも健在というのが痛いほどよく分かることであった。どんなに通信環境が進歩しようとも日本においては、総ての通信環境(掲示番、フェイスブック、ツイッター等)は「自由討論」を全く保障せず、かえって検閲官のように他人の常に始終妄想が交差する思考を切り取って、圧迫や糾弾を繰り返し「自由討論」を破壊することに努めてきた手合いが跋扈するのを何度も見せつけらてきた。その度に検閲する側もされる側も思考の幅は狭くなり自縛して遂には「全く知恵の出しあい」が出来ない不毛な糾弾会場が拵えられるのを、私自身は横目でみているしかなかったのである。

 それが何故そうなるのか、なぜそのような自縛して自らの首を絞める行為をなしてしまうのか、その原則は何なのか次回以降の筆者の考えを紹介してゆく。
 
第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2

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