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或る偏屈漢の異見(同じ人間なら同一思考という勘違い)  

皆が同じ人間だから分かり合えるはずだというのは、我国の人々が共通して持っている基本思考方式である。しかし少しでも我国の外に出て生活をした人々では大抵「同じ人間が全く違う思考形態」の共通思考形式を持って生活を築いていることに新鮮な驚きを記録として残している。ではどういった点が違うのかを少し例を挙げてはなしてみたいと思う。

ちょっと前のことだがオリンパスという会社で粉飾決算問題が噴出していたことについて、世間の人々がおおぜい賑やかに話していた時のことである。そこで相手の英国人の元社長氏があるオリンパス重役氏に対して「貴方はいったい誰のために働いているのですか」という問いに対して「私は菊川氏のために働いている」という問答をして異常なるオリンパスの実態を告発している内容の映像と記述をちらほら私自身も散見した。そしてその英国人社長氏の論旨に同意しているような報道姿勢を見ているときに私はどうにも違和感が隠せなかったからである。

私の乏しいながらの社会経験とそれなりの読書経験も踏まえて考えても「何々さんのために働く」という台詞というのは、その人がその会社でかなりの能力と人格双方を備えていない限りなかなか出てくるものではない。そしてそうした人物については、1人でも部下を持った経験を持たれた人ならその境地を理想像として持たない人はほとんどいない、おそらくこのオリンパス問題も英国人という思考形態が全くことなる文化との衝突がなければ問題にすらならない公算が高かったとすらおもえるのである。

それは以下の論語の言葉にある「葉公語孔子曰、吾党有直躬者、其父攘羊、而子証之、孔子曰、吾党之直者異於是、父為子隠、子為父隠、直在其中矣」であり、現代語にすると「葉の君主が孔子に自信満々に語って言った。『私の治める郷土に、正直者の躬という人物がいる。躬の父が羊を盗んだときに、躬は正直に盗みの証人になったのである。孔子は言われた。『私の郷土にいる正直者はそれとは違います。父は子のために罪を隠し、子は父のために罪を隠す。本当の正直さはそういった親子の忠孝の間にこそあるのです。』」という部分について己自身がどう考えているかについてみれば容易にわかるであろう。もう少し詳細に述べてほしいという人がおるかもしれないので長くなるが以下の文を引用する。

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日本的儒教倫理の側からもう一度言うと、「わが社の直き者はエレミヤと異なり、社長が黒いピーナッツ(※注ロッキード事件を参照)を食べても重役は社長のために隠し、重役が黒いピーナッツを食べても社長は重役のために隠す。直きことその中にあり」であって、これが正義・真実なわけである。

従って証人に呼ばれて「知りません」「存じません」「記憶にありません」というのは、事実ではなくとも、その中にこそ真実があり、それができる者が左右を問わず「真実の人」なのであって、よくも悪くも、われわれの社会はそれで成り立っており、徳川時代はもちろん三十年前(※注これは昭和50年頃の記述)までは、これが公然の規範であった。

この規範は、当然に連帯責任となる。従って、丸紅の重役の規範も、一見これを非難しているかに見える労組員の拡声器も子供の排斥も、実は、われわれが潜在的にもっている日本的儒教的規範から出ているのであり、考えてみれば、それが当然であって、それをしない者はむしろ例外者である。

少なくとも数百年の間に培われた伝統的規範が、三十年で一変するわけはないし、本当に一変したら日本の社会は崩壊してしまうから、それを非難しても、その規範からだれも脱し得ない。そして非難も実はその規範に基づいているのである。(山本七平『空気の研究』PP.132~133)
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つまり我国では、粉飾決算や収賄という罪を隠すことが規範からくる「真実の人」となるときがあり、もしそれを批判する場合は、少し前に報道されたような大王製紙の前社長氏のように、周りの重役連が社長氏を叩出して、如何に彼が人望を失っていたのかについての情報が噴出した後で、○○法違反は当然だという反応になるのである。しかし気になるのは一方の、英国人社長氏の伝統規範というのは如何なるものなのかについてはやはり長くなるが以下の文を引用してみたいと思う。

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そこで、ヨシュアは翌朝早く、イスラエルを部族ごとに進み出させた。するとユダの部族がくじで取り分けられた。ユダの氏族を進み出させると、ゼラフ人の氏族が取られた。ゼラフ人の氏族を男ひとりひとり進み出させると、ザブディが取られた。ザブディの家族を男ひとりひとり進み出させると、ユダの部族のゼラフの子ザブディの子カルミの子のアカンが取られた。

そこでヨシュアはアカンに言った。「わが子よ。イスラエルの神、主に栄光を帰し、主に告白しなさい。あなたが何をしたのか私に告げなさい。私に隠してはいけない。」アカンはヨシュアに答えて言った。「ほんとうに、私はイスラエルの神、主に対して罪を犯しました。私は次のようなことをいたしました。」

私は分捕り物の中に、シアヌルの美しい外套一枚と、銀二百シュケルと、目方五十シュケルの金の延べ棒一本があるのを見て、欲しくなり、それを取りました。それらは今、私の天幕の中に地に隠してあり、銀はその下にあります。

そこで、ヨシュアが使いたちを遣わした。彼らは天幕に走って行った。そして、見よ、それらが彼の天幕に隠してあって、銀はその下にあった。彼らは、それを天幕の中から取り出して、ヨシュアと全イスラエル人のところに持って来た。彼らは、それらを主の前に置いた。

ヨシュアは全イスラエルとともに、ゼラフの子アカンと、銀や、外套、金の延べ棒、および彼の息子、娘、牛、ろば、羊、天幕、それに、彼の所有物全部を取って、アコルの谷へ連れて行った。そこでヨシュアは言った。「なぜあなたは私たちにわざわいをもたらしたのか。主は、きょう、あなたにわざわいをもたらされる。」全イスラエルは彼を石で打ち殺し、彼らのものを火で焼き、それらに石を投げつけた。

こうして彼らは、アカンの上に、大きな石くれの山を積み上げた。今日もそのままである。そこで、主は燃える怒りをやめられた。そういうわけで、その所の名は、アコルの谷と呼ばれた。今日もそうである。(旧約聖書 ヨシュア記 七章一六~二六節)
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英国人社長氏の伝統規範からすれば、上記を当前のものとしている。そしてその英国人氏にとっては、粉飾決算というのは、上記のような罪という思考方法と分かちがたく結びついているため「親は子のため、子は親のために罪を隠す」という論理には到底ならない、従ってそれを隠す重役連および菊川氏を上記のヨシュアの如く糾弾するのは無理もないのである。例えその結果が「オリンパスを石を持て潰してしまっても」これは「真実の人」の行動となりうるのである。

ここで一見、英国人社長氏の論理を使ってオリンパスを非難する日本人達が多いことから早とちりして、かつての規範は古いもので今は無関係と思っているとしたら、少し考え直した方が良いと思う。それはそうした非難の対象が自身に回った時の反応を見ればよい、手っ取り早いのは一番そうした英国人社長氏の論理で他者を加罰して止まない報道機関会社がどういった反応をしたかを見れば一目瞭然であろう、TBSという企業が外資に対してとった経緯を見れば自ずと答えは出るであろう。

少し頭が痛いかもしれないが、これからの我国の人は今まで以上に日本自身と欧米のこうした基本思考形態の違いを把握する必要が出てくる。それを忘れて「もっとグローバル化」とか「もっと国際化」をすれば良いなどどいっていると、かえって自分達が彼らのこうした思考形態より発生した様々な仕組を運用しているのだという実態を忘れてしまい。あちらこちらで思わぬ落とし穴に嵌まったり、悪くすれば彼等の怒りをかって一言も反論することもできずに、石で打ち殺されることが無いとはとても言えない状況に陥ってしまうと愚考する次第である。
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