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ある偏屈漢の異見(若者の保守化を御嘆きの貴方へ -後篇) 

では何が問題なのかと私なりに考えるのは、今の中高年の人々はこの表面上の保守化雰囲気に安心立命もしくは、言葉を換えれば油断しきってしまい、若者の大いなる特性として挙げてもよい獣性と凶暴性なるものはむしろそのままなのだということを看過している点に尽きるのである。その危険性について思いを巡らしていると、内村鑑三の評論集である「『勝利の生涯 上巻』山本書店刊行」を読んで、まさに膝を打つ感があったので以下にその文を引用してみることとする。

世にいわゆる主義の人にして実は主我の人なる者多きは事実なり。彼らの自我の意見を遂行するをば称して主義を貫徹するとは言うなり。しかれども吾人は主義と主我とに霄壤の別あるを認めざるべからず。主義はわれ以外のものにして、自己とは何の関係なきものなり。いな何の関係なきのみならず、主義は主我の正反対にして前者の貫徹は後者の圧殺を要するものなり。自己の名誉を感ずるに敏く、その存在をみとめざるをもって無上の恥辱となる者のごときは主義を実行し得ざる者なり。(P.23 「主義と主我」より)

私は余り外で活発に遊ぶということも無く、ともだちというのもほとんどいないため小学校の中学年までは家に帰るとテレビをつけて「水戸黄門」の再放送を見ているような状態であった。その私が、長じて大学生となり、西暦1960~70年代の学生運動やゲバ棒学生と西暦2000年代の学生の論調を見て感じたのが「彼等は印籠を振りかざすのが大好きなのだな」というものであった。仲間内の名誉(それは前回紹介した社会意識に乗るということと同義)と、それを認めないものに対する排他姿勢という観点からみてしまうと、過去のマルクスボーイもゲバ学生も保守小僧も全く同列の人々にしか映らないものであった。そしてこの若者の我なるものは一体どのように振舞うのかは以下のようなものである。

世にまたガラス的人物なる者あり。透明にしてまた剛毅、豪直をもって世に称せらる。しかれども彼破砕し易くして彼に接するははなはだ危険なり、吾人不幸にして少しく彼を傷つくるあれば彼尖片を飛ばして吾人を傷つくるやはなはだし。透明なるは愛すべし。しかれども吾人は冷泉の清らかなるごとくなるべからず、剛毅なるは貴むべし。しかれども吾人は金剛石のごとく五光を八方に放つものにならざるべからず。激し易くしてまた砕け易きものは低価なるガラスたるのみ。(P.24 「ガラス的人物」より)

かつてあるテレビで糸井重里が学生時代の米軍空母寄港反対の自分自身を映像で見て、苦笑しながら「一体何を言っているかわからないな」と呟いた放送を見ていたが、これは遁辞でもなんでも無く素直な表現であり、只今の「保守化せる若者」なども大抵はこの類でしかない。ただただその時の社会意識に過敏に反応し、主我の自足を満たすためだけにその時代の「印籠」を振りかざして休みなく言動する様は以下の文が適当であろう。

正義に二種あり。神の正義と人の正義とこれなり。前者は愛のための正義にして後者は正義のための正義なり。前者は免さんがために責め、後者は罰せんがために責む。その責むるや酷なる点においては一なりとえいども、その終わるところは大いに異なる。打ちて、しこうして和らぐは神の正義なり。殺さずんばやまざるは人の正義なり。前者は永久の平和を来し後者は悲憤絶ゆる間なし。(P.25 「最も大なる慈善」より)

喜んで人の悪事を語る者は悪人なり。喜んで人の善事を語る者は善人なり。喜んで人の悪事を聴く者は悪人なり。喜んで人の善事を聴く者は善人なり。善人は悲痛を感ずることなくして人の悪事を語る能わず。悪人は不快の念を懐くことなくして人の善事を聴く能わず。人の悪事を聴きて吾人はまずそのこれを語りし人の悪を信ずべきなり。(P.38 「善悪の鑑別」より)

われらは世の義人に唾せらるるも可なり。ただひとえに救主の哀みを乞わんと欲す。余輩は義人の群を去り、罪人と伍を共にせんことを願う。われは善なりと思う時はわれの悪なる時なり。われは悪なりと思う時はわれの善に立ち帰りし時なり。われは善なれば他人の悪を矯めんとする時はわれの極悪に陥りし時なり。自己の善悪を判別するの法はこれを除きて他にあるなし。(P.39 「義人と罪人」より)

若者の凶暴性と獣性は「人の正義」を振りかざし、「喜んで人の悪事を語りかつ聴き」、「義人と称して他人の悪を矯めんとする極悪人」になるのをいとも簡単に成し遂げるであろう。その正義の看板がマルクス主義か社会主義か保守主義であれ違いなどない。前2者はそれが露骨に出るだけであり、後者はそれが表面上見えにくいだけである。

もし若者たちが凶暴性も獣性も無い馴化されたものだと思い違いして、社会を担う立場の人が鞭を手放してしまえば、西譬にあるように「幼子に鞭をあたえなければ、あなたは老いて涙に暮れることになろう」という状態を現出しかねないのを懼れずにはいられない心持なのである。
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