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呟き(ある偏屈漢の異見)_不易と流行-加罰を好む御仁の性癖 

 私は実に数限りない偏見の持主であることを自負する身ではありますが、世の中にはこの私でも、生涯お近づきにならないほうが吉だと考えている御仁がおります。それは浮世では「信念の人」と自称する御仁であります。この人たちの性癖を、私よりも随分と詳細に語る異国の人がおりましたので、長くはなりますが紹介してみようかなと考えた次第です。ただし世の「信念居士」の人は読まぬが吉とあらかじめ申しておきます。

 よく調べてみると、群集を動かすのに使われる装置は、いつの時代もどこでも多かれ少なかれ似ていることがわかる。というのも問題はつねに同じ人間的弱点を利用することにあるからである。超自然的なものを否定するものを含めてすべての宗教がそれぞれに特有の雄弁術のスタイルをもっており、説教や講話や演説はそのスタイルでおこなわれる。またすべての宗教は独特の儀式をおこない、お好みに合った盛装を誇示する。ある宗教はローソクに火をともしてパレードをし、連祷を歌う。他のものは赤
旗を先頭に行進し、「マルセーユ」か「インターナショナル」を歌う。 

 宗教も政党も同じように役に立たない連中を利用し、彼らのために地位や役職をつくり、区別を与えてやる。同じく宗教も政党も殉教者をつくりだすのに単純な連中、無邪気な連中、熱心に自己犠牲の場を求め、世間に知られる機会を探しまわっている連中を利用する。そしていったん殉教者が見つかると、この殉教者にたいする崇拝がずっと存続するように配慮がなされる。こうすれば信仰を強めるためにたいへん効果があるからである。昔、托鉢僧の中でもいちばん愚鈍なのを選んで、聖人に仕立てあげ、彼が奇跡をおこなうかのように宣伝するのが修道院の慣行であった。

 これはもちろん、その僧団の評判を高め、それによって富を増し影響力を高めるもくろみでおこなわれたものである。そしてこのような富と影響力はこの茶番劇を演出した人びとによってすぐさま利用された。今日でも宗派や政党は、超人やら伝説的英雄やら「まぎれもない誠実の人」やらをつくるのがたいへん上手である。ひるがえってこういう人物は、それらの徒党に色つやをつけ、陰険な人物が利用するための権力をもたらすのである。

 「わがおじ伯爵」がカブチン派修道会の管長に聖クリストフォロスが若いころやった下劣な策略のことで文句をいったとき、管長はすぐさま、醜悪なことを引き起こした者も僧服をまとえばまったく別人になるのは聖職のはまれであると答えた。まったく典型的に坊主らしい答えである!しかし坊主より悪いのは、自分の党員のもっともひどい悪行さえ、彼らがその党の主義主張に忠実であるかぎりはそれを隠し、弁護するような政党や宗派である。こういう政党にとっては、僧服をまとえばどんな人もたちどころにまったくの別人になるというわけである。

 ふつうイエズス会の名と結びつけられているさまざまな偽装、策略、陰謀は、ロヨラの追従者に限ったものではない。イエズス会士がこのような栄誉にあずかっているのは、おそらく彼らがこのような技術を体系化し、完全なものにし、ある意味でそれを一つのアートにしたからであろう。しかし結局のところ、イエズス会の精神は宗教的精神をその究極まで推し進めた場合の一つの形式にすぎない。多かれ少なかれまじめな熱意をもって人びとを一定の目的に導こうとする宗教や党派は、ある程度、イエズス会の方法に似た、場合によってはそれより悪質な手段をとってきたのである。

 そして目的は手段を正当化するという原理は、あらゆる大義名分、あらゆる社会・政治制度が勝利を収めるために採用してきたものである。どんな党、どんな信仰でも、自分の党派で闘う人間だけが偉大で、その他の人間は馬鹿かごろつきにすぎないと考えるものなのである。それ以上積極的なことができないときは、他人の長所について頑固に黙して語らないだけである。宗派に属する人びとはだれでも、形と文字のうえでは自分たちの言葉を守っているようなふりをしながら、その実それを破るという術を実践している。彼らはみな自分たちに都合のよいように事実をまげて話す方法を知っており、どのようにして単純で小心な人間を探してきて、その忠誠心を獲得し、「大義」のために―――そしてその「大義」を代表し、その「大義」の使徒である人物のために―――その支持を得るかという方法を知っている。したがって残念ながら、たとえイエズス会が消えたとしても、イエズス会の精神は残るだろう。それが嘘でないことを知りたければ自分のまわりを眺めて見るだけでよい。(ガエダーノ・モスカ『支配する階級』pp.206~208)

 これは総ての徒党を組んで組織活動をおこなう組織の一面でもあります。我国の性質の悪いのは「無私」を最高の価値の一つとしているため。「信念居士」の人は容易に異論を持つ人間を、『人間外の』ものとして扱い、その処分を自分以外の周囲にリンチさせるという形にそそのかすのに一切躊躇いが無い人物となることです。ゆえに私は生涯このような加罰性癖を持つ変態人間とは出来れば関わりたく無いと考える次第です。

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