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「無私」とは何か_1 

運動競技の経験を持つ人だと、はじめに指導者又はその先輩達からこの「無私」の状態を喧しいくらい自分自身が言われたことを覚えている人が多いと思います。私の場合はこれが柔道でしたので先輩達からは先ず歩き方として「すり足」というのを習います。これは体重を爪先側に寄せて僅かに踵を浮かせて体の中心軸を上下左右をさせずに歩行することなのですが、大抵はじめのうちは先輩から「爪先に力を入れるな、力を抜け」といって力を抜くと「そんな状態じゃ、相手と組んだら振回されるだろう」となり終いには「歩くと意識するんじゃない、体を移動させるんだ」とくるともう何がなんだかわからない意味不明な話を聞いているような状態になってきます。

そして、1月ばかりこうした「すり足」を含めた初歩訓練をした後で先輩達と組手稽古(乱取り)をするのですが、いとも簡単に体を上下左右に振回された挙句に、足払いでゴロゴロと床に転がされ立つことも間々ならない状態が3ヶ月(私のように物覚えが悪いと半年近く)続くと漸くすり足の初歩が出来るようになり、体の中心軸を上下左右させるないようにしながら移動するということが出来るようになります。つまり日常生活においては当たりまえの歩行動作が、平たい畳の上では全く理に適わない動作で「我意」を発揮しておりますから、これを一刻も早く矯正するためには「無私」にならなくてはなりません。そうしないで学習前の常識である「日常生活の歩行」に囚われたままで柔道の歩行動作を学習しようとしても、いっこうに身体への学習は進むことはなく「自分自身の我を捨てる」や「不自然なことをしない」という言葉で非難を浴びることになります。

つまり「無私」というのは単独では成立たず、我国においては必ず「ある理」という大前提が予定されているはずのものだと考えられます。「畳の上で相手と組みあいをする」という前提の「無私」ならばそこには、すり足が出てくるでしょうし、反対に「ある地点間を移動する」という前提の「無私」ならばそこには、すり足を持ち出せばかえって「不自然または我意の発揮」と非難されるのもこれまた当たり前のこととなります。

それではこの「無私」観念が、我国でどのような変遷を経たかについて次回にまたつらつら書いてみようと思います。
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