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読書録其の22(忘却は決別を意味しない) 

書名:マルクス主義の崩壊
著者:アレクサンドル・ヤコブレフ
訳者:井上幸義
出版社:サイマル出版会
価格:(金2500円+消費税)
刊行年:平成6(西暦1994)年2月

それではいつものように紹介を致します。

(※):私注となります。

・ここで重要なのは、科学(※マルクス主義は自らを『科学的』社会主義と称していた)なら必ず設定する問題が設定されなかったことである。つまり、発展の工程や、その歴史的展望に本質的に影響を与えるような新たな要因は発生しうるのか。発生するなら、いつ、どのようにてなのか、という問題が設定されることはなかったのである。(P.26)

・ところが、この法則(※利潤は労働者の生きた労働からの剰余のみから発生し、資本の投下により余剰は低下しやがて資本主義が破綻する)が実践で裏づけられることはついになかった。下降する再生産サイクルの曲線をたどって、利潤率は実際低下していった。しかし、全体から見れば、生産の場での科学の成果の利用と、利潤率の増大の関係は、たいていの場合、マルクスの予測と正反対だった。(P.38)
→上記の部分が成り立たないマルクス経済学というのは、大前提が消失してしまった論理の残骸でしかない。

・すでに言及したように、ここで「必然」のカテゴリーが「不可避性」という概念に事実上すり替えられる。つまり、人類の社会主義的未来は、それが有益であり、だからこそ人類にとって必然的である、という点で正当化・立証されるのではなく、なにやら不可避性という仮定に基づいて正当化され、立証されるのだ。(P.53)
→ここからイデオロギーとしてのマルクス主義が発生していくわけか。

・そこで、至善で健全なる目的であれば、大衆操作は許容されるのか、虚偽や狡猾という手段によって、よりよい社会機構、より純粋な生活、より高次元の心性、事由、ヒューマニズムに到達してもよいのか、ということになる。これらの問題は、あたかも修辞的疑問のようだが、その答えは、苦難の末に得られた明確なものである。人を幸福にさせるというイデオロギーは、原則として、実現の手段のいかんに関わらず不道徳である。(P.112)

・こういうわけで、狂信で目が眩んだり、歴史を恨んだりしない限り気づかなずにいられないような、今日ではすでに明々白々となった状況がある。つまり、現実を社会主義の初源の理念に一致させようとさえする試みは、すべて例外なく、社会の生産効率、住民の生活レベルと生活に質を向上させるどころか、社会の活力、精力、天然資源、物的資源をただただ浪費するだけだった、という状況である。(P.142)
→残念ながら我国では「目が眩んだ」ように社会主義の政策が生活レベルの向上が出来ると思う人士が間歇的に出てくる状況に変わりはないままである。

・問題にしなければならないのはまったく別のことだ。つまり欲求の形成(教育、文化、経済的・社会的動機づけシステムなどによる)と、欲求を満足させる可能性(つまり、生産と分配)の両方に作用を及ぼせば、これらふたつの間に一定の食い違いがもたらされ、その食い違いが、社会的緊張の増大ではなく、経済・社会における人間の積極的な活動を促す刺激になる、ということだ。これこそ、健全な経済政策の目標である。(P.244)
→社会主義は結局欲求を満たす可能性を予め固定してしまうので、欲求の形成部分との摩擦を排除するために人々の社会生活に次々と干渉・介入するほかなくなるわけか。

・(※ユートピアが歴史的には不可避でかつ、それでしか実現できないような肯定的機能を果たすための重要な但し書きについて)まず第一の但し書きは、ユートピアが、特定の社会的認識段階にあって、そこでは客観的ユートピアなしに済ますことが不可能であるか、あるいは誠実でありながら全面的に勘違いする確率が著しく高い、という場合である。それに対して実生活がとうの昔に自分なりの答えを出し、その意味も歴然としているのにわざわざユートピアに固執する、というのはまったく別問題である。とりわけ、このような固執が打算的性格を帯びている場合にはそうだ。であればこそ、私の考えでは、最初の共産主義たちや初期のキリスト教徒たちを非難するのは不当というものである。それに対し、この現代において執拗にドグマにしがみつき、そのドグマの中に思うようにならぬ生活を押しこもうとする輩には、弁明の余地はない。
そして、第二の但し書きは、誠実でありながら勘違いした状態で行動を開始しようとしている一般大衆をユートピアがとらえた、という場合である。それに対し、ユートピアを力ずくで植えつけ、それどころかどんな非人間的な手段も厭わない、というのはまったく別問題である。いかなるユートピアも犯罪を正当化することはできない。たとえその犯罪がどんな小さなものであろうと(P.321)
→残念ながら共産主義だけでなく多くの「ユートピア思想」とよばれるものは、有史上登場した多くの「革命政権」の行ったことを見ていくとわかるように「大義(革命/理想/社会/人々等等)のためならば多少の犠牲はやむをえない」と力ずくの犯罪行為を犯して人々に「ユートピア」を植え付けることを辞さないのである。

我国では一昨年の暮れ頃からの米国発の金融不安の不況から、書店では化石のようなマルクス主義の書籍を並べるようになるのを見ると、かつて東欧とロシアでなされた悲劇の実験に対する記憶は急速に薄れていったのだと実感できます。もし共産主義国家の崩壊が「ロシア人の無能により駄目になった」と考えない人でしたら、この書を読まれると得るものが大きいと思います。
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テーマ: 読んだ本の紹介

ジャンル: 本・雑誌

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