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呟き(「合理主義」とはなんぞ?) 

次回は第20回目となる読書録の前に閑話休題をはさみます。それで題名がいきなりぼんやりとしておるわけですが、何故この題目になったかと申しますと、私の趣味で戦史をかじっておりますと「合理主義に基づいた」とか「とある将軍は合理的な思考をもとに」などの表現が何らの前置きも無く良い意味として無意識に使われていることに、私にはなんとなく胡散臭い言葉遣いと20代も半ばを過ぎると悶々と考えるようになりました。

それから月日が流れて縁からある自衛官殿と面識を持ち、この「合理主義」なるものは一体全体何ぞやという問答を行いました。以下から話すのはその内容を、私が脳内で編集した「熊さん八さん」形式であらわしたものです。

※自衛官殿は宗匠、私は枯山で表記をしております。

枯山:宗匠、どうも私には巷で良く聞くゴウリシュギとかゴウリテキとか言われてもいまひとつピンと来ないもので、かえって胡散臭いことと感じてしまうのですが、これは一体どういうことですかね。
宗匠:ふむ、それはおそらくその合理主義の人達が合理となる前提を省いてしまっているためではないですかな。
枯山:というと?
宗匠:例えば、枯山さんは「天動説」というのをご存知ですか?
枯山:ええと、地球を中心に各天体が動いているというあの理論ですか。
宗匠:そうです、その天動説ですが「地球を中心として各天体が運動しているという」前提からみると非常に「合理」性を持った理論体系となっているのです。
枯山:あの天体が時折順逆運動を行うというような理論に合理性があるのですか?
宗匠:そうです、先程話した論理の大前提からは実に詳細に「理に適った」ものでした。
枯山:そうすると、「合理」といってもそれが直接正しさに結びつくことはないと。
宗匠:端的に申せばそういうことです。そして、我国における議論には往々にしてある論理体系における大前提を無視、もしくは忘れて、「合理主義」や「合理的」なる言葉で自説の証明が出来たと誤解されている人を御見受けします。
枯山:なるほど、ゴウリだけで肝心要の前提がないもんだから空中楼閣となるわけで、そういうゴウリシュギシャが胡散臭い雰囲気を発するのはそういった理由なのだとようやく得心できました。

以上の内容は、あくまで私の力量で把握できるだけの内容なので、文章ならびその内容についての責任は総て私自身のものであるとは申すまでもございません。
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No title

 前回のトラックバックのすすめですが、「いろいろとクドい話」では、トラックバックを受け付けておられないようですね。申し訳ありません。

 さて。
「七五三の晴れ着や、節句の飾り物に金を掛けるよりは、その文を貯金等にまわした方が合理的」と言った表現があり、子供の親と可愛い孫を見たい祖父母が対立した際に両親側が言ったりする台詞だったりしますが、これは、「孫・子供への伝統継承やその可愛さにたいする価値判断を重要視しない視点からは」合理的な訳で、この前提を省略した表現な訳ですな。

 ちょうど再読していた「日本人と中国人」(イザヤ・ベンダサン著、山本七平訳)に、
以下の記述がありました。( )内は、私による説明です。

************************************************

(明治から昭和初期までの)当時まで、(文明開化を進めてきた)日本にとって絶対の規範は西欧であっても(朱子学の論理を用いる)尊皇思想ではなかった。それが先鋭的に表れたのが、二・二六事件の発端である「天皇機関説と国体明徴問題」である。

 この議論は結局は、天皇を西欧の法的基準で定義するか、尊皇思想の基準で定義するかという問題であろう。従ってこの論争にはもちろん、西欧政治思想内の右翼・左翼という問題は出てこない。天皇機関説の美濃部達吉氏の思想と行動と経歴に左翼を求めることは、明徴問題を軍の内部に持ち込むまいとしたため、機関説肯定者として殺された陸軍の教育総監(渡辺錠太郎大将)に左翼を求めるのと同様に、ナンセンスであろう。

 この論争は実に奇妙な論争である。西欧に天皇は存在しないから、西欧の基準で天皇を定義すること自体こっけいであり、無意味である。これをこっけいとも無意味とも考え得ないことは、西欧を絶対の基準と考え、すべての基準をこれに求めているからにほかならない。西欧だけが世界ではない、従って西欧の基準で規定できない存在は、この世界にいくらでも存在する。だが当時のヨーロッパはその考え方を肯定しなかった。西欧が絶対であった。

 したがつて機関説を肯定すれば、西欧という基準が天皇をも規定する絶対者になる。だが一方、尊皇思想でそれを拒否すれば、尊皇思想(を唱える個々人の思い込み)による「内なる天皇」(脳内天皇)を抱くその者が、その思想で(現実の)天皇自身をも規定できる絶対者になってしまう。従って奇妙な論争という以外に言いようがない。

 両者とも、自分の規定が何ゆえに合理性を持つかを、論証しえないのである。すなわち一方は尊皇思想がどのように形成されていったかを何も知らないから、なぜその思想で天皇が規定されるべきかを説明できない。また一方は、西欧の基準で天皇を規定することが、何が故に合理的であるかが論証できない。権威を借用した器用な追随者の悲劇であろう。

***************************************************

 また、以下も、合理性の前提への視点が抜けたことによる問題かも知れません。
http://tfr.seesaa.net/article/151169947.html

MUTI #wkggCOKE | URL | 2010/06/05 22:03 * edit *

Re: No title

MUTIさま

ここ数年で私は漸く昭和初めに現れた、皇道派という存在が実在の天皇ではなく概念上の天皇を優先する存在であると同時に、反皇道派たる「統制派」という存在もまた西洋基準(当時は国家主義と社会主義の混合が公理)による外部規範を速やかに導入するための至便なる道具として天皇を用いるという図式ではないかと考えるようになりましたが、ご紹介の書籍にもあるように山本七平氏が先にこの図式を明瞭に掴んでいたのに改めて驚かされる次第です。

今でこそ西洋を絶対規範とする思想も弱まりつつありますが、明治~昭和40年代に入るまでは思想の流行は時々刻々変化するも借物の規範から見て、我国を判断する人々が大勢いたことを考えてしまいます。この人達の言説が一時流行するも根付かないのは「我国は貴方のいう外国(英仏独米伊露)ではない」という当然の前提を無視して、合理主義を語る軽信さに根があるのではないかと考えます。また、一方の尊皇思想を借りた「伝統主義」者というのが案外我国の歴史の多様性(武士と一言にいうが、独立武装開墾者・両国経営者・世襲官員という変遷あり)を無視する独善に陥っているように考えております。

林 枯山 #- | URL | 2010/06/08 01:38 * edit *

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