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読書録其の32-1(自由の扱い難さについて)  

書名:なぜ日本は変われないのか
著者:山本七平
出版社:さくら舎
価格:(金1,400円)消費税別
刊行年:平成23(西暦2011)年12月7日 第一刷

さて今回の読書紹介であるが、少し変則の紹介となりある一部の所を集中して取り上げてゆくことにする。何故なら日本で明治以来から舶来思想のなかでも最も扱い難いとされているのが自由という概念であると考えている。まずは以下の部分の話を見ると判明する。

※赤字部分は原文では傍点

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雑誌「諸君!」掲載の渡部昇一教授(注:『知的生活の方法』などのベストセラーがある上智大学名誉教授)の社会主義批判の論文「甲殻類の研究」に対して、宮下正一氏(会社員)が、面白い批判の投書を同誌の編集部に寄せた。
   
 これは日本人の常識における「自由」という概念を探る上で貴重な一文と思われるので、関連する部分を次に引用したい(注:同誌一九七六年三月号)。
「 ・・・・・・さすがに文章は流れるようで、社会主義の問題と全く関係のなさそうな乳幼児の問題から最後まで一気に読んでしまうところだった。けれども最終頁になって『魚のように自由になりたい』という文章が出てきた時、思わず笑い出してしまった。この面白い物語が、こんな真面目な希望にささえられているとは全く意外だった。・・・・・・

 渡部氏は、自分の立場は明確にしないで論文を進めているが、それでも最後に『自由主義を選択することを主張している。自由主義とはつまり資本主義のことだが、社会主義も国家社会主義も資本主義の矛盾が生み出したものである。・・・・・・

 渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからないが、資本主義も初期の資本主義とは違って、かなり自由ではなくなって社会主義化しているし、この趨勢は避けられない・・・・・・」
 
 この投書者は、まず「・・・・・・自由になりたい」という言葉で笑い出し、自由主義とは資本主義と断定し、「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからない」といいながら、「資本主義もかなり自由ではなくなって」社会主義化しているし、「この趨勢は避けられない」と断言している。

 この投書は、おそらく平均的日本人の自由および自由主義という概念の輪郭を示しているであろう。いま日本人にとって最も触れられたくない概念、できれば棚上げしておきたい概念は、おそらく「自由」という概念なのである。

 この言葉は、どう扱ってよいか誰にもわからないから、それが出てきたら「思わず笑い出し」、自由へのこんな「真面目な希望」をもつことは「全く意外」になるわけである。

 といいながらこの投書者は、「自由主義とはつまり資本主義のこと」と断定している。ところが渡部氏は「自由になりたい」といっているのであり、この言葉が示すように、「自由」という概念は、いわゆる自由主義より古い、人間のもつ基本的概念である。

 投書者はこれと、古典的な「見えざる手」の統制に依拠する「経済的自由放任主義」を同一視し、「自由主義とはつまり資本主義」だと断定している。いわばこの投書者にとって、自由とは一に経済上の問題であって、それだけなのである。

 ただ、それでは少し奇妙と思ったためか、「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからないが」といいつつも、結局資本主義も初期の自由放任主義とは違って社会主義化している、とまた経済上の「自由放任」にもどってきている。 

 このことは、現代の日本において「自由」という言葉が、ほぼこのような枠に限定されていることを示しているであろう。と同時に、この限定の中の評価は、あくまでも否定的もしくは消極的評価であり、できれば触れたくない概念であることを示している。(PP.198~200)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この文章は、只今現在から35年前の昭和51年に書かれたものである。だが、その内容は奇妙なほどに既視感を覚えさせるものである。私自身の記憶ではこれは、12年近く前の私の学生時代の構造改革論議でこのような自由化論議を見かけたし、少し前のTPP論議でも見かけたものである。自由というものを経済面だけで捉えており、経済効率化ができるから自由は善で推進するべしとなり、景気が悪くなると自由とはアメリカ(そのときどきの「諸悪の根源」が指定)の押付けなのだから悪だというような議論を横目に眺めていた記憶がある。

ここからは経済の競争力や効率化の視点からしかそもそも自由を評価していないのは、巷の学者や評者に多くみられる態度である。自由とは何かについては余り考えずに、その場その場の状況次第で賛成や反対の外国文献を持ちだすだけなのが目につく、自由経済万歳の時はフリードマンやハイエクを振りかざし、風向きが懐疑論となれば同一人物僅か数年の内にケインズやマルクスを振りかざす始末であり、自由そのものとは何かを考えているというより、経済状況により自由を如何様にでも取引可能なものとして扱っている。

こうした経済自由化論者達を経済思想用語ではレッセ・フェールと呼称しているが、この思考の人々は経済自由化のためなら中央集権政府が望ましいとして、強権で何事かを推進するのを躊躇わない人物だという指摘は、トクヴィルの『旧体制と大革命』で既にされており、私自身の乏しい経験に照らしてみてもこれは肯けるところである。 彼等は口を揃えて「政府が何々すべし」という言葉を頻発している姿が何度も見かけたものだからである。

それでは、次回からは我国の人が明治開化から本当は避けていた自由について著者の考えの紹介をしながらつらつら考えてみたいと思います。
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