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或る偏屈漢の異見(続・大阪「狂」想曲)  

今回は正月早々に触れた話題の続きともなるし、また同じことの話をすることになると思うが、つれづれなるままに書いてみたいと思う。いつもの前置きながら、政治意識の高い人やら改革への信念の人やら政治リテラシーの高い人などは読んでも無駄なので、御引取願う次第である。

数日前、大阪の橋下氏が国政に参与するため、政治方針なるものを打ち出したのはまだ御記憶の人もいるかもしれない。巷では「船中八策」など称して意気軒昂なる模様である。関東在住の赤の他人の目から見ると馬鹿に大騒ぎしているなとすら思える景色でもある。

しかし、どうにも不可思議なことが起きているとしか言いようのないことである。私は短いながらも数十年生きていて、少なくても一つの確信をいだいていることの一つが、世の中において片手間仕事なるものは、どうしたって上手くはいかないという単純極まりないものである。どんなに才能があろうと、人は時間だけは残念ながらどうにも出来ない代物であり、それをどうにかしてみせると嘯く手合いなど私は信用していない。そういう手合いというのは結局どこかで無茶をやらかすか、無理を他にシワ寄せすることしかしないのが現実の姿なのは仕事をしていく上で、嫌というほど見せつけられた姿であったからである。

それが何故か大阪維新の会という「ローカルパーティ」と称する地域政党が国政に乗り出すと橋下氏が宣言するのを聞いて呆れてしまった。一体全体彼にとって「大阪都構想」なるものを片手間仕事と思っているのか、それとも国政を片手間仕事と思っているかはわからないが、はっきりいって自滅行為以外の何物でもないだろう。大阪再生という仕事は私のような素人でも生涯を掛けるくらいの大仕事だと見当は突く、そのために地域政党を立ち上げて人材を集め、そこで知恵の出しあいと、大阪再生の仕事を行う実施面での供給を行い、その組織の自力と実績を付けていくのは健全な考えだと思わされる。

だが、国政に参加するとなれば折角の大阪再生の仕事のエネルギーはどんな美辞麗句で飾り立てたところで分散するのは避けられないし、僅か1年半程度の期限で国政に参加して成果が挙げられるほど強固な実績や組織があるわけでもない大阪維新の会で真っ当な国政が出来ると期待するのは土台無理でもあるし、何より大阪再生を目的に参集した人々に対しては、当初の目的から逸脱したことを橋下氏がどう道理を立てるのかサッパリ理解できないのである。

橋下氏を支持する人たちは、既成政党組織が二進も三進もいかないことから「エネルギー」に溢れる彼に期待をしているというのが現状であると私は見ているのであるが、目標が分散したりベクトルがはっきりしないエネルギーというのは残念ながら無意味に等しいものでしかない。大阪再生を望むならば今の橋下氏の「大阪から日本へ」や「小異を捨てて大同に就く」に式の号令によりこのまま政治運動に突入するのではなく、どうしても片手間仕事になる危険なる考え方を謝絶して、大阪維新の会を地域政党として地固めするように完全に組織を別にするのが、真っ当ではないかと偏屈漢なる私は考えるのである。

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或る偏屈漢の異見(大阪「狂」想曲) 

 新年早々なのだが、昨年から少し考えていたことがありここにその考え方をつらつらと書いてみることにする。愚生の戯言になればまことに幸いであるが、どうも嫌な気が晴れないので実際に言葉にしてみようと考えている。ただし世の「政治リテラシーの高い人」やら「改革の人」にはとてもおすすめできない内容なので、読まないことをお勧めする次第である。

 さて、何を気にしているかと言うと、昨年11月の大阪市長選挙並びに大阪府知事選挙である。あの選挙においては、前府知事の橋下氏が現職の平松氏に大勝して幕を閉じたものである。その時にある店で何気に、一人飲んでいたところで店の主人と世間話の一環としてこの選挙の話をした。私が一番気になったのは何故「大阪都構想」を実現するために大阪市長に橋下氏がわざわざ出なければならないのかというものであった。

 何故ならいくら大阪府下の最大都市であるとは言え、大阪全体から見れば3割の人口と面積は1割を超えた部分であり、どちらも過半数には満たないのが現実である。ましてや「大阪都構想」ともなれば他の大阪府下の各市町村に対して「都構想」のプラスとマイナス双方を吟味した上で、その構想の説明と各市町村の負担の配分に対して実施をする地位に立つのは大阪府知事ではないかと考えていたからである。

 店の主人曰く「大阪市は既得権益が強くて二進も三進もいかない、にも拘らず既成政党ではその改革が全く期待できない、ゆえにこそ大阪では橋下氏のようなエネルギーのある人に期待している」ということを聞かされた。これを聴いて私は奇妙な既視感を覚えた、つい数年前の夏に「既得権益を打破」をすれば政治が良くなると期待したあの言説と同じものであった。確かにあの時も政権政党たる自民党が完全に手詰まり状態で二進も三進もいかない状況であり、民意が「何とか新しい風を」と民主党に期待したような空気であったということである。

 あの時も今も私は民主党は支持できないが、数年前のあの選挙結果は民意の表れだと素直に受け取っている。また大阪市や大阪府の現既成政党が全く現行の問題対処能力を失っていると住民が見ているのも選挙結果に表れていると素直に考えている。

 しかし、それだからといって只今の大阪改革の御旗をふるう人間に対して私が感じた違和感が消えるわけではない、いやむしろ今の橋下氏のやり方は旧軍の参謀がやった中でも、私自身が蛇蝎の如く嫌う「名目指揮官」と「私物命令参謀」の組み合わせにしか見えないからである。かつての旧軍では参謀には名目上指揮権はないのであるが、様々な場面で名目上の指揮官の名を使用して書類を作成しあらゆる「私物命令」を発動していたのである。有名なのはフィリピンの「ロハス殺害命令」はその代表例であり、大本営派遣参謀の辻中佐が本間軍司令官と和知参謀長の名前を公然と使用して「私物命令」を出していた。これは一番性質の悪い「私物命令」で発案者の責任には絶対ならないようになっている仕組みになっているものである。いやそれどころか、和知参謀長が仮に戦犯指定を受けてしまえば、如何に全く知らないものだと抗弁しても、「言い逃れをするな」や「責任転嫁する卑劣漢」として罵詈讒謗を浴びさせれれた挙句処刑されかねないのである。

 いま地域政党としての「大阪維新の会」の代表は橋下氏であるが、現在の彼の職責範囲は当然のことながら大阪市でしか無い、大阪全体として各市町村の利害調整等の難事の実施責任は総て新府知事である松井氏が当たることになる。しかし改革の主導者は橋下氏だと思われているのでこれだとどうみても「名目指揮官」は松井氏ということになる。

 しかしこれでは傀儡政治という批判を免れることはできないし、「大阪都構想」が失敗した場合(私は只今「対決姿勢」をする強調する橋下氏の弁護士流やり方では、早晩破綻は避けられないと見ている)でも、橋下氏は「他の市町村が非協力だった」と他の市町村長もしくはその議会を非難するか、最悪の場合は「松井氏が私の構想を理解しなかった」か「松井氏が『既得権益』に妥協した」などといって非難し、松井氏がもし「都構想については私は詳細は知らなかった」や「橋下氏の考えを実施したに過ぎない」と言おうものなら、「責任転嫁するな」や「卑劣漢」という罵詈讒謗を加えられて政治生命を絶たれるのを避けられないものとなる。

 勿論所詮は政治家同士の権力争いでしかないなどと斜に構える見る御仁もいるかもしれないが、その対価が、大阪の人びとの多大な政治エネルギーの浪費と、彼らの政治関心の消失だとすればこれは大きな問題になるのではないかと恐れるのである。

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或る偏屈漢の異見(『義人』共の激高の果てに) 

あの大地震より七ヵ月の月日が経過した、率直に言えば恐慌状態に陥っていた関東在住の人々も、先月頃には神奈川県知事の200万戸のソーラーハウス企画が大幅に後退したことから判断して正気に戻ったのであろうとは思う。随分長い間の恐慌状態に陥っていたのだなとあらためて自覚させられたものではあるが、その原因は率直にいえば自身を直視できないためなのだと考える。

巷ではあの大地震で大津波にのまれ一瞬で命を失った人々、家財道具すべてを一瞬にして失った人々、原子力発電所事故により政府の避難地域を受け、余儀なく着の身着のまま地元から離れざるを得なくなった人々がいる。その人々の大部分は当たり前のことであるが、只今現在でも失ったものを取り戻すことをほとんど出来ないという現実に直面しながら日々を生きている。だが、状況の変化の無い限りニュースにはならないという報道機関の特性のため被災者の人々に対する報道は著減し、実像がわからないという意識が被災地以外の人々から雲散霧消してきている。そしてこれから先は残酷なまでに無関心になることは想像に難くない。

だが一番の問題点は無関心になることではない、それより遥かに問題なのは「被災地に関して完全に無関心と化した己自身」が直視できなくなっているという点なのである。それに対して、条件反射のように私(己)は、被災者も被災地共に無関心などなっていないと反発する人もいるだろう、だがその人々はお盆頃に最後の避難所が閉鎖されたときに大してニュースにもならなかったことを覚えているのであろうか、もしこのニュースがGW頃でも流れていれば人々は、キチガイ染みてまるで吾身に降りかかる災いの如く「何て無慈悲なことをするのか」などど悲憤慷慨したであろう。

では、GW(被災2カ月)とお盆(被災5カ月)で被災地と被災者の状況はそれほど改善したのであろうか、率直にいえば突貫工事の「仮設住宅」という名のプレハブ小屋が被災者世帯の員数分(生活の利便性などは彼岸の彼方)用意されただけであり、瓦礫などはほとんどそのままで、家財道具や生活基盤などは失われたままであり、『復興』など被災時から全くといってもよいほど変わっていない状況というのが、彼等の偽らざる姿というのが己自身の生活感覚に置き換えてじっくり考えれば理解できるのにもかかわらずである。

それでありながら、避難場所が閉鎖されるというならば「受入場所はどうなっているのか」「そこの生活の利便性はどうなのか」「そもそも閉鎖の決定は誰が、一体全体どういう基準に基づいて決定したのか」「その基準は現実から乖離していないのであろうか」「まさか4月頃の『御盆まで仮設住宅設置をやります』と述べた政府発表の面子を優先したのではあるまいな」などと、被災者、被災地に関心をもっていれば出てくるような疑問などもほとんど挙げられず、その他おおぜいのニュースを受取る処理方法、すなわち翌日頃になれば自身の頭のなかから綺麗さっぱり記憶から消えてしまう、そんな類の反応しかしなかったのが偽らざるものであった。

この状態にまで陥っていながら、私(己)は無関心ではないとは到底言えない状態のはずである。それにも関わらず「被災者の痛みは我が痛み」「被災地の人々を思え」などど言って世の人々に義人の面をして説教などすれば、当の被災地の被災者達は、すぐにそうした手合いの無関心を見抜き、自分達を義人の主張の出汁に使おうとしていることを直ちに理解した上で、憎悪を向けてくるであろう。そうした両者ともに不幸になる関係に陥らないためには、己自身が被災地について如何に無関心となっているという事実を率直に認めるしかない。もしこれが出来なければ、「無関心に対抗した被災地の金切声」を聴きつけた、義人達の絶叫によるはなはだ歪んだ復興努力がなされるのが避けられなくなってしまうのであろう。

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呟き(ある偏屈漢の異見)_不易と流行-加罰を好む御仁の性癖 

 私は実に数限りない偏見の持主であることを自負する身ではありますが、世の中にはこの私でも、生涯お近づきにならないほうが吉だと考えている御仁がおります。それは浮世では「信念の人」と自称する御仁であります。この人たちの性癖を、私よりも随分と詳細に語る異国の人がおりましたので、長くはなりますが紹介してみようかなと考えた次第です。ただし世の「信念居士」の人は読まぬが吉とあらかじめ申しておきます。

 よく調べてみると、群集を動かすのに使われる装置は、いつの時代もどこでも多かれ少なかれ似ていることがわかる。というのも問題はつねに同じ人間的弱点を利用することにあるからである。超自然的なものを否定するものを含めてすべての宗教がそれぞれに特有の雄弁術のスタイルをもっており、説教や講話や演説はそのスタイルでおこなわれる。またすべての宗教は独特の儀式をおこない、お好みに合った盛装を誇示する。ある宗教はローソクに火をともしてパレードをし、連祷を歌う。他のものは赤
旗を先頭に行進し、「マルセーユ」か「インターナショナル」を歌う。 

 宗教も政党も同じように役に立たない連中を利用し、彼らのために地位や役職をつくり、区別を与えてやる。同じく宗教も政党も殉教者をつくりだすのに単純な連中、無邪気な連中、熱心に自己犠牲の場を求め、世間に知られる機会を探しまわっている連中を利用する。そしていったん殉教者が見つかると、この殉教者にたいする崇拝がずっと存続するように配慮がなされる。こうすれば信仰を強めるためにたいへん効果があるからである。昔、托鉢僧の中でもいちばん愚鈍なのを選んで、聖人に仕立てあげ、彼が奇跡をおこなうかのように宣伝するのが修道院の慣行であった。

 これはもちろん、その僧団の評判を高め、それによって富を増し影響力を高めるもくろみでおこなわれたものである。そしてこのような富と影響力はこの茶番劇を演出した人びとによってすぐさま利用された。今日でも宗派や政党は、超人やら伝説的英雄やら「まぎれもない誠実の人」やらをつくるのがたいへん上手である。ひるがえってこういう人物は、それらの徒党に色つやをつけ、陰険な人物が利用するための権力をもたらすのである。

 「わがおじ伯爵」がカブチン派修道会の管長に聖クリストフォロスが若いころやった下劣な策略のことで文句をいったとき、管長はすぐさま、醜悪なことを引き起こした者も僧服をまとえばまったく別人になるのは聖職のはまれであると答えた。まったく典型的に坊主らしい答えである!しかし坊主より悪いのは、自分の党員のもっともひどい悪行さえ、彼らがその党の主義主張に忠実であるかぎりはそれを隠し、弁護するような政党や宗派である。こういう政党にとっては、僧服をまとえばどんな人もたちどころにまったくの別人になるというわけである。

 ふつうイエズス会の名と結びつけられているさまざまな偽装、策略、陰謀は、ロヨラの追従者に限ったものではない。イエズス会士がこのような栄誉にあずかっているのは、おそらく彼らがこのような技術を体系化し、完全なものにし、ある意味でそれを一つのアートにしたからであろう。しかし結局のところ、イエズス会の精神は宗教的精神をその究極まで推し進めた場合の一つの形式にすぎない。多かれ少なかれまじめな熱意をもって人びとを一定の目的に導こうとする宗教や党派は、ある程度、イエズス会の方法に似た、場合によってはそれより悪質な手段をとってきたのである。

 そして目的は手段を正当化するという原理は、あらゆる大義名分、あらゆる社会・政治制度が勝利を収めるために採用してきたものである。どんな党、どんな信仰でも、自分の党派で闘う人間だけが偉大で、その他の人間は馬鹿かごろつきにすぎないと考えるものなのである。それ以上積極的なことができないときは、他人の長所について頑固に黙して語らないだけである。宗派に属する人びとはだれでも、形と文字のうえでは自分たちの言葉を守っているようなふりをしながら、その実それを破るという術を実践している。彼らはみな自分たちに都合のよいように事実をまげて話す方法を知っており、どのようにして単純で小心な人間を探してきて、その忠誠心を獲得し、「大義」のために―――そしてその「大義」を代表し、その「大義」の使徒である人物のために―――その支持を得るかという方法を知っている。したがって残念ながら、たとえイエズス会が消えたとしても、イエズス会の精神は残るだろう。それが嘘でないことを知りたければ自分のまわりを眺めて見るだけでよい。(ガエダーノ・モスカ『支配する階級』pp.206~208)

 これは総ての徒党を組んで組織活動をおこなう組織の一面でもあります。我国の性質の悪いのは「無私」を最高の価値の一つとしているため。「信念居士」の人は容易に異論を持つ人間を、『人間外の』ものとして扱い、その処分を自分以外の周囲にリンチさせるという形にそそのかすのに一切躊躇いが無い人物となることです。ゆえに私は生涯このような加罰性癖を持つ変態人間とは出来れば関わりたく無いと考える次第です。

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読書録其の17(地政学の著作紹介-その二) 

書名:平和の地政学
著者:ニコラス・スパイクマン
訳者:奥山真司
出版社:芙蓉書房出版
価格:(金1900円 + 消費税)
刊行年:平成20(西暦2008)年 第一刷

地政学の著作紹介第二弾として、今回は米国のスパイクマンの著作を紹介いたします。
※():私注となります。
※[]:ルビ部分

・たしかに国際制度(international institutions)(※主権国家という独立単位を前提とする)は国家が解決しなければならない特定の問題について対処するために設立させられたものであり、しかも国家は互いに対する行動を抑制するルールの存在を認めているが、それでも安全保障の最終的な責任は各国自身にあるという事実は変わらないのだ。(P.33)

→当たり前の事のように聞えるが、往々この前提を忘れるのが我国における国際政治論の特徴で、引き受けるべき安全保障の最終責任を国連等の国家以外の機関に委託できると幻想(これが我国の『自称理想主義』)するか、安全保障において国家間の行動抑制をするルールを総て無視する無法者(これが我国の『自称現実主義』)となるかを見てしまうと、あまり理解されていない前提のようである。

・(※パワー・ポリティックスの完全排除と国家間の協力と相互自制を求める提案に対して)あいにくだが、この解決法は世界の政治的な仕組みに存在する、ある特定の基本的な事実を無視している。その事実とは、「国家はそれぞれ独自の根本的な価値観を持っており、この価値観を守るためには紛争も辞さないものであり、また自分たちにとって正当だと考える目的を獲得するためだったら実力を行使することもありえる」ということだ。(P.34)

・地理的なポジションと物理的なパワーは、国際世界を考える際に考慮に入れられなければならない「事実」であり、これらの事実をよりよく理解するためのテクニックは確かに存在する。また、地政学者によって一般化された理論が実際の政策に適用される場合には、常に善悪の倫理判断が考慮される必要があることも忘れてはならない。(P.41)

→我国の「リアル・ポリティック」を主張する人びとが、現実政策を呼号しながら平然と没道義に不感症な論理を吐くことを思うと重い部分である。

・(※対外関係における包囲の不利について指摘の後で)しかしながら、国家が領土的に包囲されても、周辺を「囲んでいる側」の国の経済力が「囲まれている側」の国家の潜在的パワーバランスを圧倒できるほど強力でなければ、その包囲はほとんど意味をなさない。したがって、ある国家の状態を見極めるには、その周辺の自然資源や工業力を注意深く分析し、それがどれほど活用できるものであり、しかも実際にどれだけの力があるかを比較する必要がある。それ以外にも、包囲という状況は、二つの地域の政治統合が比較的うまくいった場合にのみ実力を発揮することを忘れてはならない。(P.69)

→「集団安全保障」や「封じ込め」政策を考える際に真先に考えなければならない要点である。

・地理の現実が教えているのは、西半球(※南北アメリカ大陸を指す)のパワーの中心地であるアメリカの二・五倍の広さと一〇倍の人口を持つユーラシア全体の潜在力が、将来アメリカを圧倒する可能性がある、ということである。たしかに現在(※第二次大戦中頃)では新世界の工業生産力は旧世界のそれとほぼ同じ規模であるが、それでも余りかが統一されたユーラシアのリムランド(※マッキンダーのハートランドを除いた沿岸部分)に直面することになれば、強力な勢力による包囲状態から逃れられないことになってしまう。よって平時・戦時を問わず、アメリカは、旧世界のパワーの中心が自分たちの利益に対して敵対的な同盟などによって統一されるのを防ぐことを目指さなければならない。(P.107)

→これが、スパイクマンの唱える地政学の政策主張の部分であり、論理の暗黙の前提となるところでもあるので念頭におくことが必要となる。

・よって、エアパワーが持っている「自由に向って飛び立つ鳥」というイメージに騙されてはいけない。飛行機が地上から飛び立つことができるのは、地上にあるトラックが、鉄道の物資集積所や港やドックからガソリンや潤滑油や弾薬を運んでくるからである。(P.110)

→この指摘を見ると、我国で口先では「ロジステック」なる言葉を呼号する合理主義者なる人が、第二次大戦時における井上成美提督の「島嶼航空基地戦略構想」を称賛しているが、上記のエアパワーに対する指摘部分に想像力に欠けているという欠陥を保持したままだと強く思わされてしまう。

残念ながら著者は西暦1943年に死去しており、この書はその後において生前のメモやノートや講義などをもとに書かれたものであり、体系性という点には難があるものの、第二次大戦にいたる渦中の分析やアメリカが問題となる状況についての考察、マッキンダーの批判的分析と継承部分の思考部分において一読する価値は高く、前回とりあげたマッキンダーと併読するとより面白い発見がある書だと思います。

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