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備忘録4(不可解なる状況に関しての一考察-其の2)  

前回から3月程時間が経過する不精振りを実感させられるところでありますが、続きを書いていきます。

(※):私注となります。

・(※8/15の玉音放送後のころ)私にとっては、まさに内憂外患でありましたが、電報を打たせたあと、航空士官学校叛乱のことを、隊司令部と直属上官にあたる浦和地区憲兵隊長に電話で報告したところ、宮城で玉音盤を奪取しようとする事件があったことと、森師団長閣下などが殺されたことを聞かされたのであります。(※略)ところで、その電話で、「犯人は航空士官学校の大尉である。至急調査するように」と命ぜられました。(※略)上原という姓までは、電話では出なかったように思います。航空士官学校の一大尉、と聞いた記憶がございます。時間でございますか。そうですね午後四時ごろでございましたでしょうか。近衛師団長が殺害されたという情報が隊司令部にはいったのが午前二時ごろ(※!)で、現場確認のためにのため伊藤憲兵中尉を急派した、と塚本さんは言っておられます。(P.267)

・逮捕すれば、陸軍刑法も軍法会議もまだ存続していますので、死刑はまちがいないでしょう。(P.270)

・私(※柄沢氏)は、すぐに(※8/16午前9時頃に上原大尉に師団長殺害の確認後)、九段の憲兵隊司令部に側車を飛ばし、塚本参謀にお会いしました。塚本さんは、椎崎中佐、畑中少佐、上原大尉のことをすでに知っておられました。陸軍省の人たちも皆知っているよ、と申されました。そうでしょうね、井田さんの口から出たのでしょう。塚本さんは井田さんを以前からよく知っておられ、軍事課長の荒尾大佐に、井田は死ななくてもよいのでは、と話されたりしておられます。お二人(※荒尾と塚本)で相談された結果、十七日に井田さんの身柄を陸軍省から塚本さんが引き取り、適当な場所で十分に考える時間を与えることに決まったようです。(※略)意見をきかれました私は、逮捕するには忍びないから、可哀相ですが腹を切らせるのが上原大尉の名誉のためにもよいのではないか、と答えました。塚本さんは、うなずかれました。ところで、憲兵が腹を切ることをすすめたりはできません。自殺関与罪という刑罰もあります。(P.271)
→最後の一文が最も重要な部分である。私が終戦時の事件が「一青年将校の暴走」という話を完全に信じられなくなった部分である。憲兵隊が法律違反を承知で事件の揉消(当時、唯一の実行現場にいた被疑者に取調べもせずに口封じ同然の自決を勧告するのはこれ以外に表現のしようが無い)を行い、尚且つその責任を現地憲兵将校のイニシアチブに見える外観を与える手口といい、司法組織としては余りに異常な事だからである。

・翌十七日、私(※柄沢氏)はまた校長室に行きました。上原大尉が自決された十九日まで、毎日校長室に詰めきり、夜明けになって帰隊するといったくり返しでした。(※略)十七日の夜も空け、そして、十八日の夜になりましたが、上原大尉はまだ腹を切りませんでした。荒武大尉を呼び、まだかとたずねました。(PP.273~274)
→このやり方は明らかに上官からの「命令」執行の見届け及び報告義務を待つ初級士官の姿勢である。


著者の飯尾氏の関心は上原大尉が師団長殺害の直接実行者としての確証を得ることを目的としているため、あまり気にしていない部分がある。それは上原大尉の自決日を何故に中央側だと8/16日としているのかという点である。当初として私も筆者と同様に8/16と8/19の差をそれほど重視していなかったのだが、もしかするとこの日付のズレこそが「宮城クーデター事件」の見直しを迫る鍵となるのではないかと考えているのである。この私なりの仮説を次回から述べてゆきます。
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備忘録3(不可解なる状況に関しての一考察) 

そもそも私が、対米戦争の終戦間際に我国で起きたクーデターについて調べ始めたキッカケというのは、飯尾憲士『自決』を一読したときの不可解な状況が原因でした。その不可解に思ったことを今あらためて整理してみます。

(※):私注となります。

先ず簡単な事件の経緯を述べます。

1、昭和20年8月15日の深夜(午前1~2時)頃、航空士官学校区隊長の上原重太郎大尉(以後上原大尉と呼称)は東京の近衛師団司令部にて当時近衛師団長であった森師団長及び同室していた西部軍参謀の白石中佐を、陸軍省の畑中少佐と共に殺害(後の昭和40年頃になり共同実行犯として窪田少佐も浮上)する。
2、上原大尉は上記事件後に士官学校に同日に帰校(午前5時頃)。
3、同日正午頃、上原大尉は他の区隊長らとともにポツダム宣言受諾拒否の『実力行使組』に参加(所謂航士事件)
4、17日に「航士事件」は本部に武器を返却する形で決着
5、19日午前2時、航空士官学校の敷地内(航空神社の遥拝所)にて上原大尉自決(介錯は荒武大尉)

それではいくつか気になった箇所を引用してゆきます。
・自決される前日(※8/18)、夕方頃だったと思いますが、区助(※上原大尉)が言いました。"俺はやるべきことはやった。憲兵とともに行こうと思う。生き抜いて、皇国の成り行きを見なければならんからな。"(P.71)

・自刃される前日(※8/18)の夕方、区隊長殿は私たち区隊員を自習室に集め、(多分自習室だったと思います)、俺はこれから遠いところへ行く。貴様たちは、日本の将来をよく見極めてくれ、というようなことを申された記憶があります。私はそのあと区隊長室に行き、自刃するのではないか、と直截におたずねしました。微笑なさっただけでした。(P.80)

・「生徒隊長から、本部に呼ばれた。わしが上原の親友だと聞いたんじゃろう。うん、吉井大佐とかいったな。上原を自決させてくれ、とわし(※荒武大尉)に頼むのだ。ご存じのように、憲兵も航士にはいりこんでいた。本部のおえら方は、事なかれ主義だ。上原を自決させて、すませてしまおうと思っておる。吉井大佐(※第一生徒隊長の吉井宝一大佐)などは、土下座せんばかりの頼みようだったな。わしは、返答せんで、部屋を出た。わしは、上原に、何も言わなかった。上原が生きているというので、わしは何度か本部に呼ばれた。絶対に、わしは、首をタテに振らなかった。上原を、逃がしてやりたかった」(P.120)

・(※小林京一少佐の話)「上司(※誰?)は、上原の自決を望んでいた」ぽつりと、口をひらいた。「私は、すすめることができなかった。行方をくらまして欲しい、とも考えた。……あの晩(※8/18?)中隊舎の横の、運動場に面した斜面に、二人で腰を下ろして話した。上原大尉のとるべき道は、三つしかなかった。行方不明になるか、自首するか、自決するか。上原大尉は、"自決させてください"ときっぱり言った……」(PP.131~132)

・その上原重太郎に自決を促しつづけたのは、航士を守備範囲に持っていた豊岡憲兵分隊長から柄沢勇太郎中尉であった。(※中略)たしかに、柄沢憲兵中尉は、憲兵司令官飯村穣中将から史上最後ともいえる賞詞をさらに東部憲兵隊司令官大谷敬二郎大佐からも賞詞を与えられていた。(pp.250~251)

・(※柄沢氏の手紙より)上原大尉と二人で話しましたことなど、お会いしました折り、一部始終お伝え申しあげます。逮捕するよりもと、自決の道を選んでいただきたかったのです。(P.252)

・私(※柄沢氏)は、上原大尉とは、十五、十六日のわずか二日しか会っていません。自決をすすめる言葉も、直接口にしませんでした。憲兵からすすめられて自決したとあっては、上原大尉の名誉に関わることであると考えました。十七日以降、私は上原大尉の前に姿を見せませんでした。学校本部にずっと詰めておったのであります。(P.260)

この後から、時系列を整理していくと奇妙な事態が生じるのですがここについては後日あらためて触れて行きたいと思います。

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備忘録2 

先週の木曜に久方振りに目黒の防衛研究所図書館を訪れたことが出来たので、ここに継続調査案件のメモを残す。


資料1(近衛連隊第一連隊歴史補遺より)
・昭和20年8月15日午前2時に下達された所謂「偽命令」は、その内容については下達時間の数時間前に古賀参謀より連絡されていたものであった。
→これで昭和20年8月14日午後11時頃に、東部軍と連絡をとった古賀参謀が不破参謀に「近衛師団は決起しました」という話について腑に落ちる。おそらく古賀参謀はこの時点においていくつかの部隊に私物命令を出し、「私的盟約に基づいて兵を動かす」という「ルビコン」を渡る行為をした自覚が上記の科白となったと考えられる。

資料2(東部軍終戦史 昭和21年 不破博)
※この資料は陸軍大臣への終戦時の報告書というもの

・八月十四日ノ朝、田中軍司令官ハ呼ハレテ阿南陸相ノ許ニ至ツタカソノ時阿南陸相カラ「本土決戦ヲ飽クマテ強行スル場合東部軍ノ作戦準備ハ大丈夫カ」トノ質問アリ田中軍司令官ハ「大丈夫テス」ト答エタカ更ニ阿南陸相ハ言葉ヲツイテ「本土決戦ヲ強行スル場合、和平論ヲ主張スル政府要人ヲ監禁スル必要カアルト思ウカ東部軍トシテ成算カアルカトウカ」トタツネタ ソコテ軍司令官ニ随行シテイタ高嶋参謀長ハ「コノ問題ハ餘程慎重ニオ考エニナル必要カアリマセウ」ト答エタ
→この会見は梅津参謀総長にクーデターを断られた後の会見なのだが、不穏な情勢が継続中というのが読める、またこの資料は後日の線引きがある以前の時点(つまり昭和20及び21年)において、この時点の言動から阿南陸相がクーデターに加担していたと見ている。

・八月十四日ノ昼頃不破参謀ハ森近衛師団長ヲソノ司令部ニ訪ネ、万一廟義カ終戦ト決定シタ場合東部軍トシテハ如何ナル態度ニ出ルヘキテアルカニツイテ教エヲ乞ウタ。(※中略)実ハ本朝来中央ノ若イ連中(※30~40台の佐官連を指す)カ入レ代ワリ、立チ代ワリ、近衛師団ノ蹶起ヲ強要シテ来ルカ私ハ陛下ノ御命令カナクハ一兵ト雖モ動カサヌトテソノ都度追イ帰シテイル然シ彼等ノ信念ハ固く私ノ説得ヲ納レヨウトハシナイ。
→朝の阿南・梅津会談でクーデターが終了したと後世に書かれた記述は信頼度を割引いて読む必要あり。

発生した不明・疑問点
①田中軍司令官と阿南の会談は、記録があるのだが何故か森近衛師団長についての記録がない、師団長が一人で陸軍省に向ったのか、水谷参謀長もしくは古賀参謀または副官が随行したかも不明
②陸軍省の佐官蓮はしきりにこのとき「東部軍」という単位に注目するが、これは当時編制上において紙の上では「近衛第一連隊」が「東部第二部隊」と呼称されていたことを過大視して、自己(陸軍省)の手駒として動かすことが出来るとおもいこんでいたのではないか。

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備忘録1 

先の大戦時のまさに最後に発生した「宮城事件」というクーデター事件があったことは、それなりに知られているが、その事件が二・二六事件のような司直の捜査も行われないまま曖昧に処分されたことは、以外と知られていないのが現状です。そのためか戦後も六十星霜が経過した今日では、我国での悪癖の一つたる「公刊(官庁)資料第一主義」による弊害があらわれてきました。その弊害とは端的に言えば、当事者の証言する事実がこうした官庁資料と異なる場合に無理矢理に終戦直後のゴタゴタに出来た出来の悪い資料にあわせてしまう点です。

※私のこの事件における立場を一言でいえば「何がわからない点かを明確にしたい」という点に尽きます。

さて、前口上はこのぐらいにして今回の資料は、塚本清『あヽ皇軍最後の日』(非売品)昭和32年版になります。
※著者は昭和20年当時には田中静壱東部軍司令官の専属副官だった人物です。
※本では正漢字ですが、表記上現代漢字にしております。
※大将は原則、田中静壱を指します。

・八月十日の午後である。フィリピン時代から大将と親交のある毎日新聞社の狩野近雄氏が軍司令を訪れて、昨夜重要閣議で決定したポツダム宣言受諾の情報を伝えた。(中略)大将は直ちに車を駆って日頃から大将の最も信頼されている第一総軍司令官杉山元帥のもとに訪れ、この情報の確認を求められた。(中略)総軍から帰られた大将は、私の部屋で待っていた狩野氏を軍司令官室によび入れ、ニコニコしながら、「杉山閣下は、そんなことはないと否定されたよ」といわれた。(中略)狩野氏が軍司令官室から出て来られると、しばらくして私に対して管下の全軍団長を非常召集する命令が下された。翌十一日正午、全軍団長に、本土決戦を前に部下全軍の掌握を厳にする旨の烈々たる訓示がなされた。そして当時としては異例の午餐の食膳には酒が一本づつ供せられた。(pp50~51)

・八月十四日の朝六時。阿南陸軍大臣から田中軍司令官に電話がかかって来た。「至急会いたい」ということであった。「こんなに朝早く大臣が私呼ばれるということは唯事ではない。ひょっとすると陸軍省の若い連中が何か動いているのではなかろうか」なにかしらの予感を胸に、軍司令官は先ず第一総軍司令部に杉山元帥を訪れ、次に陸軍省に行かれた。大将の予感は的中した。陸軍省の若い幕僚連中が、阿南陸相に戒厳令を強請し、軍司令官にもその準備を頼むというのである。大将は即座に、静かな口調ではあったが厳然といわれた。「このような重大な問題は、陸軍軍人だけの命令では出来ぬ。戒厳のためには畏れ多くも御勅裁を仰がねばならない!」(p59)

・その夜(※8/14)である―――。軍司令部内にある軍司令官の居室の、ソファ身を埋めて、何事か思案をつづけられる司令官を、訪問したのは、次男の俊資少佐であった。(中略)「お父様は終戦を知っていられたのですか?」「いや、知らなかった。本当の決定は今日の昼はじめて知ったのだ……。昼までは戒厳の計画をやっていた。今朝六時陸軍省から電話があったよ。先ず杉山元帥を訪ね、わざと時間を遅らせて大臣と会ったよ。若い連中が何をやらかすかわからんのでなあ―――。」
・「われわれは一体どうすればよいのでしょうか。参謀本部の総務課の高級参謀は、米軍は本屋横浜地区に上陸し得る距離にある、最悪の場合は、米軍の戦車は明日中に市ヶ谷台に到達する情勢にある、一切の書類を焼却せよと、石油を分配したりしていますが―――」
・十一時を少し廻った頃―――。陸軍省からの電話で次のような報告が入ってきた。「陸軍省並びに参謀本部の一部将校は明十五日、正午に行われる天皇陛下の終戦の玉音放送盤を奪取して、陛下の御聖断をひるがえし奉り、徹底抗戦を行わんと、クーデターを計画している模様である」すかさずこの報告は、幕僚を通じて軍司令官のもとに―――。「塚本副官!憲兵司令部と陸軍省に緊急手配!」報告が終った瞬間、大将は即座に至急命令を発せられ、司令部の内部にあわただしく緊迫感が流れる。
・そして真夜中。「閣下、近衛師団が不穏の情勢にあります。先程、私が所用で近衛師団に電話しましたところ、古賀参謀がいきなり近衛師団は決起しました、是非軍もお願いしますと……申しますので反問しますと、どうやら陸軍省の若い連中が来て、森近衛師団長に面談し、その決起を強要している模様です」緊張して頬をこわばらせたまま入って来た作戦主任の不破参謀は、このように報告したのであった。(pp63~67)

・午前二時―――である。(※この前に近衛師団参謀長水谷大佐より師団長殺害の報告あり)息づまるような空気の中に、近衛第七連隊の皆美大佐が、参謀とともに軍司令官室に入って来た。「只今、電話で師団参謀から、重要命令を下達されましたが、不審の点がありますので、万一の場合を考慮して、真偽のほどを問合せに参りました。……」と報告するのである。(p74)

・(※田中軍司令が乾門へ芳賀連隊長と面会していた時)―――と、その時、一台の自動車が、フルスピードで歩哨線を突破し、乾門内に突入しようとして来る。「塚本、あの車を止める!」田中大将は厳しく命令する。「はッ!」と答えた私は、その車に立ちはだかり、「止れ!誰だ!」と誰何したのであった。その車から、転げるようにして下り立ったのは、陸軍省の軍事課員三名(※荒尾大佐、井田中佐、飯尾少佐)であった。その一人には、生々しい鮮血が附着している。師団長の死骸を片附けたための血か、それとも殺害の場に居合せての返り血を浴びたものに違いはなかった。「閣下、私どもは近衛師団の指導に参りました。どうか入らせて下さい」と嘆願するのである。(p82)

・宮城前広場には、終戦の放送を聞いて、続々と集って来る人の群があった。大将はじっとこれを見つめていた。座して砂利に頭を伏せる者あり、立ちたるまま黙祷を捧げている者あり、君が代の合唱も聞え、時折悲痛な声で、天皇陛下万歳と嗚咽慟哭の声はさしもの広場を埋めつくしていた。(p86)

不明点
①8/14の2300頃にあったとされる陸軍省からの近衛師団決起通報が、時が経つに従って関連書籍から姿を消すようになる。
②鮮血を服に浴びているはずの井田中佐は、当時の供述では殺害現場すら見ずに直ぐに東部軍司令部に向ったと主張している。
③下村海南氏や著者及び絵内氏のように皇居前広場に多くの人々が参集したことを印象深く取り上げているが、近衛師団の北畠大隊長の著作にはこのことについて全く触れていない点で、彼等は一体この時間何処に居たのかよくわからないところがある。

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