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読書録其の33(近くて遠い時代の話)  

書名:日本の童話名作選 昭和篇
編集者:講談社文芸文庫
出版社:講談社
刊行年:平成19(西暦2007)年6月1日 第四刷

 さて今回の読書紹介となるのは、この中の新美南吉『おじいさんのランプ』となる。或る日にこの本の内容を友人たる人から聞いて一読してみたいと考えて、本屋でこの本を購入したものだからである。前置きはこの程度にして紹介に入っていこう。

 時代は昭和10年代の半ば、愛知県は岩滑新田(やなべしんでん)で、東一君という少年が倉からランプを持ってきてから一顛末の後におじいさんの昔語りが始まるのである。

 時は50年程前に戻り日露戦争の頃に岩滑新田の村に巳之助という、親兄弟親類縁者無しのみなしごがおり、子守や雑用をしながら何とかその日暮らしをしていたのである。何とか村の厄介者にならずに生きる道はないかと悶々としていたところで、巳之助はある日に人力車の手伝いで潮湯治場であった大野の町に夕暮れ頃に入ったのである。村からでてはじめての町は巳之助にとって何より珍しいものであったが、何より人々が夕闇が近づくころに軒先にある花のような明るいランプに目を奪われたのである。

 まだ岩滑新田の村には夜は暗闇に包まれるのは当たり前で、行燈の明かりも僅かな家にあるだけで、明かりは薄暗いものでしかないものであった。それが竜宮城のように明るい大野の町をみて巳之助は無理を承知であるが、ランプ屋に自分がランプ屋になると約束して1つのランプを仕入れて村に帰っていったのである。あたりの闇と巳之助の心に明かりをともしたランプとともにである。

 当初は売込に苦労するが、試に村の雑貨屋で使って貰うと次第に好評になり、ランプ売りが軌道に乗り出したところで、巳之助は自分の宣伝文句たる「ランプの下なら新聞の字もはっきり見える」を試して見て、己が字が読めぬことを思い知り、これでは文明開化にはならぬと覚り、区長さんに頼んで毎晩読書きを覚えるようになる。商いも軌道に乗り、所帯も持ち、子供も出来て男盛りとなった巳之助は風鈴を売るような車を引いてランプの音色をさせながら、人びとに明かりを灯す仕事に打込んでいったのである。

 ところが、巳之助が或る日に大野の町にランプを仕入れにくると、道端に太い長い柱と黒い線で軒先とつながっている奇妙な景色を見る、また甘酒屋のランプが店の脇にポツンと置かれているのも見る。どうも電気とやらが入ってくるようだとのことだが、大して気にもかけずにしばらく店にいると、やがて夕闇が迫り件の電気の明かりが灯される。その瞬間に巳之助は思わず戸口を振返り再び太陽が昇ったのかと錯覚するほどの明かりを目の当たりにして、食い入るように電球を見つめながら己の敗北を覚るのである。

 ただ、まだ巳之助は大野に比べて岩滑新田は田舎だから電気は当分は来ないと高をくくっていた矢先に、村でも俄かに電気を引く話が持ち上がるのである。巳之助は猛然と電燈反対の意見を言う、己が信じても無い迷信すら使うようになる。かつて村にランプの明かりを灯そうとした巳之助の心に次第に暗闇が覆うようになる。そして、巳之助の奮闘むなしく村は電燈導入で意見が決まると、巳之助の心は増々暗闇に覆われ、幾日も家を出ずに布団を被りじっと誰か恨む対象を探出し、ついに小さい頃から世話になった議長役の区長の家に付火を行うことを決める。その情景を新美南吉は以下のように描いている。

・菜の花ばたの、あたたかい月夜であった。どこかの村で春祭の支度に打つ太鼓がほとほと聞こえて来た。巳之助は道を通ってゆかなかった。みぞの中を鼬のように身をかがめて走ったり、藪の中を捨犬のようにかきわけたりしていった。他人に見られたくないとき、人はこうするものだ。

 そして、巳之助は当初から目論んでいた通り(ただし、マッチだけは見つからず代わりの火打石を持って)藁屋根の牛小屋に付火を行うために火打石で火をつけようとするが、火がなかなかつかない、そして新見南吉は続けて描いていく。

・「ちぇッ」と巳之助は舌打ちしていった。「マッチを持ってくりゃよかった。こげな火打みてえな古くせいもなァ、いざというとき間にあわねえだなア。」そういってしまって巳之助は、ふと自分の言葉を聞きとがめた。「古くせえもなァ、いざというとき間にあわねえ、・・・・・・古くせえもなァ間にあわねえ・・・・・・」

 ここで巳之助の心に再び明かりが灯る、かつての自分が人々に明かりを灯そうとしていたことを、そしてランプがそれに応えることがもうできなくなったことを覚ったのである。巳之助は家に戻り売物のランプを総て車に載せて、村はずれの大きな池まで引いていき、その場所の木に明かりを灯したランプを吊り下げていった。様々なランプは鈴なりとなり真昼のような明かりを灯していった。そこに巳之助はしばらく見つめてから、決然として一番大きなランプに石を投げる、ランプを音を立てて砕ける。巳之助は三番目に大きいランプまでを割ったときに、なぜか涙がうかんで来てそれきり石をなげることはできなかったのであるが。

 そしてそれから巳之助はランプ屋を止め本屋になったとしておじいさんの昔話はおわる。東一君は巳之助の名前がおじいさんの名前であるのを知っているので、その後のランプの顛末を聞くが、おじいさんはわからないと告げるだけである。ただ、当時はまだランプの需要が無くなったわけでもないのだとおじいさんが言うと、東一君は「損をしてしまったね」や「馬鹿しちゃたね」と述べる、おじいさんはただ馬鹿をしたことを認めるが煙管を握りしめて以下のように述べる。

・「わしのやり方は少し馬鹿だったが、わしのしょうばいのやめ方は、自分でいうのもなんだが、なかなかりっぱだったと思うよ。わしの言いたいのはこうさ、日本がすすんで、自分の古いしょうばいがお役に立たなくなったら、すっぱりそいつをすてるのだ。いつまでもきたなく古いしょうばいにかじりついていたり、自分のしょうばいがはやっていた昔の方がよかったといったり、世の中のすすんだことをうらんだり、そんな意気地のねえことは決してしないということだ。」

 見事というほかに言葉は無い。この作品は傑作であると思う、新美南吉の文章が最後のこの言葉を、私が何としても肖りたいと思わせるほどの力を持つものである。もし時間があれば是非に一読を勧めたい作品と思うくらいのものである。ただ、作品をどう読むかはその人次第というのは先刻承知であるし、それが物分かりの良い態度だという世間の掟も知らぬわけでもないが、それでもあえて言いたいことがある。それは決してこの作品を用いて下らない他者批判の出汁や、水戸黄門の印籠のようにつかうという下劣な根性だけは見せてくれるなということである。

 昭和10年代であれ、只今であれ一番下劣な手合いとくれば、こうした作品を己の下劣な他者批判の文章に引用して、その作品の良さを根っこからぶち壊しにすることだけが得意であり、あの『阿Q伝』ですらそれを安易に社会批判の出汁につかうのに躊躇いがない、我国の知識人士の寄生虫のような生態から考えれば、私の危惧は杞憂でもなんでもないと断言することすらはばからないのである。
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或る偏屈漢の異見(想起無しの黙祷とは) 

 あの東北沖の大地震から1年が経過する、もう記憶がどんどん薄れているのがよく分かるので一昨日職場で、ある人が「ウチの会社が黙祷をやるようだよ」と聞いて漸く思い出すような有様である。そしてどうもテレビ番組ではその特集やらを組んでいるらしいとのものであった。そこで気になって当時のメモを久方ぶりに取り出してつらつら書き出してみようと思う。

 先ず大地震直後の3月12日は、朝方「国鉄」が7時出発予定の電車を「もう少し」、「間もなく」と駅内放送をしながら、はじめは車両点検、次が線路点検、次が信号機点検、其の次が最終点検に最後は運行計画の見直しなど、「運転見合わせ」と言えば済むのだが、これをせずに只管馬鹿の一つ覚えで「もう少し」と述べながら上記の事を延々と行い、従来ならば発車前に行うことを9時近くまで延々とやっていたことが挙げられる。

 しかも、その事を駅員に指摘しても何故か「誰が駅内放送をしているか不明」と述べ、では駅長もしくは責任者はいないかと尋ねるとやはり「何処にいるか不明」との返答であり、一体全体何が起こっているか全く要領を得なかった。さらに、駅から列車が発車して停車駅毎の駅内放送がまたおかしなもので、後続列車が当分来ないと告げながら乗客の無理押し乗車を咎める放送もしていたのには頭痛と体が10度くらい曲がった状態の乗車体験を1時間近くすることになった。

 また途中駅でも混乱がひどくなっているようで、南浦和駅で降りて、停車した電車がいつ動くか確認しようとすると、何故か大混乱している状態なのにパソコンを眺めて「次の電車は何十分後です」とトンチンカンな返答をして、目の前の徒歩10歩程度の実際の電車がどうなっているかも全く確認しないという状態であった。その後徒歩で浦和駅でついて窓口の駅員に尋ねるとどうも彼らは「JR東日本の正社員」では無いという返答であり。この時漸く「国鉄」が丁稚を修羅場の窓口に立たせていたことを何となく嫌な気分で聞かされたものであった。

 そして、3月12日の夜頃には、コンビニのパンや握り飯に弁当に乾麺は姿を消し、13日には人々は買い溜めに走り、店頭には米・パン・保存食品が瞬く間に消えうせ、14日には市場に12日到着予定のトラックが漸く入るもその以後が予定が立たないという話を聞かされ、17日頃には給油をするのに一日丸々費やすようになり、20日頃には開店前の数時間前から数百メートルの自動車が給油待の数珠つなぎ状態の景色を見るなどの場面があり、物流が止められていることを実感する一方で、何故か政権党側の社民党議員がコンビニに「物がないのはどうしたことだと」怒鳴り込む不可思議かつ散々なる行状を見ることになった。

 また、テレビは震災後一週間近く数種類のAC広告だけの報道番組を1週間近く流し続ける異常なことをしていたのも思い出される。意味不明なる自粛ムードで花見どころか夏の花火大会も中止を当然だと言わんばかりに吠えていた人々の「意見なるものを」只々流していたことも想起させてくれる。

 さて、こんな顛末を書いたのは、黙祷の時にこうしたことを想起する人がどれほどいるのかと自問自答してみたのである。実体験した被災者の人々は強烈な記憶の焼き付きがあるおかげで数年は大丈夫かもしれないが、あいにく私は人は記録の無い状態ではどんな強烈な体験でも風化が避けられないのは、第二次大戦の将兵として参加した人々の日記を読み、その人々が戦後においてどれほど物忘れが激しいかを知ることで長持ちしないことを知っている。

 こうした想起無しで黙祷をして意味があるとするのは、正直に言えば己を欺くことであり自己満足に終わるしかないと私は危惧している。こうした記録を毎年淡々読み返し、想起した上で黙祷するのでなければ、人の自己の行動を省みることが出来なくなるのではないかと考える。そんな記録すら満足に出来ていない状態で「震災の教訓」をあちこちで企画しているようだが、それは間違いなく次の災いに対して、己を震災後に他者に対して散々非難した「想定外」という領域に押しやっている愚行としか考えられないのである。

 小林秀雄が「悧巧な奴はたんと反省してみるが良い」という言葉を述べたと思うが、私は「悧巧な奴は好きなだけ黙祷なり教訓探しなり説教なりしていれば良い」という心持がするだけである。

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読書録其の31―4(生物としてのヒトと人間としての人_4)  

さて、前回からの続きですが少しだけ前置きをいれる、以降からは生物としての「ヒト」の行為を取り上げてきますが、その記述を読む際に是非とも喜怒哀懼愛悪欲という激情を発さず、あるがままのヒト姿を見てもらいたいとねがっている。「他者の痛みは我が痛み」など自称する御仁にはここから先の記述は百害あって一利もないし、「歴史の教訓」などど説教する御仁もまた同様である。早々に以下の記述など読まずお引取願いたく思う次第である。

山では行き倒れはいたる所にあり、皆互いに腹が空いているので穴を掘ってやる元気も体力もないので倒れた所で朽ちてゆくだけだ。山の登り口とか乗り越えねばならん大きな倒木石などの所には必ずといって良い程死んでいた。死ねば、いや死なぬ内から、次に来る友軍に靴を取られ服ははがれ、天幕、飯盒など利用価値のある物はどんどん取り去られてゆくのでボロ服を着た屍以外は裸に近い屍が多かった。虜-P.102

当時の我国の人々も勿論普通は行倒れや屍の放置などはしないのが当たり前である。その上で行き倒れと屍の放置がそこかしこにみられた時は、ほとんど周囲には「人」はおらず生命維持に邁進する「ヒト」が居る状態だと心得てよい状況である。 そして全体としては以下のような状態が展開される。

糧秣のない部隊は解散して各自食を求めだした。そして彼らの内、力のない者は餓死し、強き者は山を下りて比人の畑を荒し、悪質の者は糧秣運搬の他の部隊の兵をいおどしあげて追いはぎをやったり射殺したり切り殺して食っていた。糧秣運搬中の兵の行方不明になった者は大体彼らの犠牲となった者だ。もはや友軍同士の友情とか助け合い信頼というような事は零となり、友軍同士も警戒せねばならなくなった。虜-P.103

以下の記述はその状況を細密に描写したものである。

ストッケードで親しい交際をしていた人の内に、最高学府を出た本当に文化的な人がいた。この人はミンダナオ島で戦ったが、山では糧秣が全くなかったので友軍同士の殺し合いをやったという。或る日、友人達を殺しに来た友軍の兵の機先を制して、至近距離で射殺した事があると話してくれた。そしてその行為に対しては少しの後悔も良心の呵責もないといい切っていた。それはその友軍兵を自分のほうが先にやらねば、必ず自分が殺されているから、自己防衛上当然やむを得ない事だといった。虜-P.280

生物としてのヒトは繰り返しになるが生命活動維持に邁進しているので「良心の呵責」とか「罪の意識」なる人に属したものは無くなっているので、上記のような行為も飢渇に対応した当然の反応としかならないものとなってしまう。それは残りの食糧が一週間前に迫った小松氏の周辺でも同様であり次のような記述が出てくる。

その夜、堀江が虎の子のミルクの罐詰をあけ、皆(五人)に平均に分けた。その時隊長である船越に特別たくさんに分けなかったといって彼は激怒した。品性下劣な男とかねてから聞いていたが話に勝る馬鹿者だ、皆あきれ返って以後話もしなくなる。この日以来堀江は事毎にいじめられた。ミルクの執念恐るべし。この男生まれが悪いか、生来のひねくれ者か、忠告すれば隊長の威信にかかわったとでも思うのか、かえって反対の行動をとるので一切いわん事とした。その内兵隊に殺される類に属する男だと思って。虜-P.117

これは食糧がないための一時状態かと思われる人もいないかもしれないが、一度徹底した飢渇を経験してしまうと、その人は地金にヒトとしての行動が出やすくなり食糧が入った後になっても以下のような行動をしてしまう。

(※希望盆地で食糧がある状態で)船越は魚やエビの大きなのを一番先に食べてしまうので皆の反感を強めていた、船越は兵を酷使したり敬礼をせんといってたたいたりするので、兵達は船越を打ち殺す計画までたて機会をねらっていた。船越とはよほど馬鹿か育ちの悪い人間だ。悪逆非道とはこういう将校の事をいうのか?虜-P.127

(※収容所内で)米軍から二日置きに糧秣が支給になる。米、小麦粉、それにたくさんの罐詰が。罐詰の内には、破損したり、外見の錆びついている物、腐敗した物が相当ある。これらはまとめてゴミ捨場に捨てられる。するとたくさんの人間がそれを奪い合って拾う。これを、「膨張罐拾いの人種」という。これら捨てられる罐詰の中には、少数食にたえる物が混じっている。これが彼らのねらいだ。「膨張罐を拾わんでください。見苦しいですから。また、あたれば死にますよ!!おなかがそんなに減っているなら炊事であげますから」と係員が怒鳴っているが、一向にやみそうもない。(※中略)特につけ加えておきたいことは、これらの人種の内の大多数は老人、将校だという事。鼻下に美髯を貯え、丸々と肥って、常に卑屈な笑いを浮かべ、「将校の体面にかかわるから、やめてくれ」といくら注意されても平気な主計大尉もいた。虜-PP.174~175

もし餓鬼道の絵を見られた経験を持たれる人ならば、ありありとあの絵が戯画ではなくありのままの現実を写したのかわかるような光景が以下の記述にでてくる。

所内をカゲロウの如く、フラフラと歩き回っている様は、悲惨なものだった。食欲だけは常に猛烈だった。これは食べねば回復しないという意志の力も手伝っているようだが、少し食べればすぐ下痢をおこし、また衰弱する。それでも食べるので下痢も治まらない。常にガツガツしている様は、餓鬼そのものだ。自制心の余程強い人は良いが、そうでない人は同情を強要し、食物は優先的に食べるものと一人決めしているのが多い。

軍医氏の話によれば、「栄養失調者は、身体のすべての細胞が老化するので、いくら食べても回復しない。それに脳細胞も老化しているので、非常識なことを平気でやるのも無理はない」という。なるほどと思われる解説だ。この栄養失調者の群れが、ゴミ捨場に膨張罐を、炊事場に残飯をあさる様は、惨めなものだ。のちに彼らだけに二倍の食物が給与されるようになった。若い兵隊はそれでも回復していったが、年の多い将校の中には、いつまでも回復しない人がたくさんいた。いずれにせよ、この栄養失調者の群れは、同情されぬ人が多かった。虜-P.127

自制心という話が出ているが、その自制心とはどの程度のものを指すかといえば以下のようなものである。

どうにもならなくなった時、この一切れの芋をくわねば死ぬという時に、その芋を人に与えられる人、これが本当に信頼のできる偉い人だと思った。普通の人では抜けられぬこの境地に達し得た人が人の上に立つ人だ。PP.276~277

私は中学高校時代で一度づつ『渇望』という言葉の意味が分かる程、水が欲しいと思える状況を体験してしまったが、そのどちらであっても上記の境地にたどり着くことなど到底できないことを思い知らされたことがある。とくに高校時の経験では、小松氏のように先行き不透明な状況が並行して起きていたとすれば、私は近くのドブ川に迷いなく顔を突っ込んでいたのは想像に難くないし、もしかりに目の前にコップ一杯の水があったとすれば、それを他人に分けることなど到底出来なかったということも偽らざる自身の姿だと察することができる。

そのような私が、あの大地震からずっと恐ろしいと思っていたのは原発事故から人々がエネルギーを節約するのがいとも簡単なこととして捉えられており、絶対にそのような生活をする気がないのに御坊さんの言葉だけを鵜呑みにして容易く同調し、気違いのように「節電」を訴えたことが、まるでマニラの白昼夢を見ているような気がしてしまい背筋が凍えたことである。そして以下に記述の重さを痛感もさせられるのである。

いわゆる「残虐人間・日本軍」の記述は、「いまの状態」すなわちこの高度成長の余慶で暖衣飽食の状態にある自分ということを固定化し、その自分がジャングルや戦場でも全く同じ自分であるという虚構の妄想をもち、それが一種の妄想にすぎないと自覚する能力を喪失するほど、どっぷりとそれにつかって、見下すような傲慢な態度で、最も悲惨な状態に陥った人間のことを記しているからである。

それはそういう人間が、自分がその状態に陥ったらどうなるか、そのときの自分の心理状態は一体どういうものか、といった内省をする能力すらもっていないことを、自ら証明しているにすぎない。これは「反省力なき事」の証拠の一つであり、これがまた日本軍のもっていた致命的な欠陥であった。従って氏が生きておられたら、そういう記者に対しても「生物学的常識の欠如」を指摘されるであろう。

氏は、ある状態に陥った人間は、その考え方も生き方も行動の仕方も全く違ってしまうこと、そしてそれは人間が生き物である限り当然なことであり、従って「人道的」といえることがあるなら、人間をそういう状態に陥れないことであっても、そういう状態に陥った人間を非難罵倒することではない、ということを自明とされていたからである。(日-PP.226~227)

昨今では文明による「暖衣飽食」という幸運が当たり前でいつまでも続くという気安さから、いとも簡単に「自然に帰ろう」などと口走る人々がいる。しかし、自然に帰った場合に人々に待ち受けているのは1000人中999人が前述したような生物としてのヒトにしかなれないのである。そして当然ながら自然はそんなヒトなど一切保護しないのである。それが如何に恐ろしい状況に陥るかは既に我々の先祖が体験していることである。この事実をただ淡々と思い知らされる両著は、裨益することが多いので一読をお勧めしたく思う次第である。

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読書録其の31―3(生物としてのヒトと人間としての人_3)  

さて、前回より間が空いてしまいましたが、続きを書いて行きたいと思います。今回からは、昭和20年3月頃からで小松氏が米軍に追い立てられて山の密林地帯での話しとなります。

山の生活は雨と湿気が多く、被服の乾く間のないような日が続いた。それに持ち込んだ糧秣は米と肉だけで野菜に飢えてきたので、食用野草の調査をはじめる事とした。幸い、神屋氏が牧野博士の『日本植物図鑑』をこの山までもってきてくださったのと、自分の持っていた月明の『食用野草図鑑』はこの調査に大いに役立ってくれた。日本の草と比島の草では大部違うが、それでも似たものや同じ属のものなどを少しずつ食べてみて毒にならねばどんどん食べる事にした。虜-P.82

まさに泥縄式に山地自活が始まったことを思わせる記述であるが、実態といえばこの「日本の図鑑」すらなく、大部分の部隊は実際に食べてみて毒見するしかなかったのが実態である。まるで先の大地震の時に、徒歩で帰宅するにも関わらず一枚の地図すら持たず歩いていたのが大多数であったことを思えば、むしろこれが当たり前の姿なのだ妙に納得してしまう。

そしてこの状態から2ヵ月後の五月頃に兵団参謀勤務となった著者から以下のような記述が出てきます。

有富参謀、鈴木参謀と横穴の中で会談した。有富「もう糧秣はほとんどない。この危機を切り抜けるには密林内の植物を食べる以外ないと思うが、いかに」、自分「まったくその通りと思います。それで、入山以来この地帯の食用植物の研究をやってきました」、
有富「それではその研究結果を各部隊に教育してくれ」、自分「承知」、有富「主食になる物はないか」、自分「ジャングルの中にはない」、有富「ジャボクのような大きなシダの芯が食べられるそうだが、あれはだめか」、自分「丸八ヘゴの頂部の芯は美味で食べられるが量が少なく、澱粉質もあるかどうかさえ疑問です」、有富「澱粉があるかないかわかるか」、自分「ヨウチンがあればわかります」。有富参謀、当番にヨウチンとヘゴを取りにやらせる。試験してみれば、わずかに澱粉反応があらわれた。「少量はあるが副食程度で主食とはならない」、有富「ヘゴに似た黒い木は山中にたくさんあるが、あれは食べられぬか」、自分「あく抜きをせねば食べられない」、鈴木参謀「野草だけでは無理と思うが、このジャングル内での甘藷の栽培は不可能か」、自分「台湾の高山蕃人はかなりの高山で芋を作っているから、場所を選べばできると思います」、横田「できます」、有富「では当分の間兵団にいて、自活法の研究指導をやってくれ。友軍の死活の問題だから明日の命令受領者に現物教育をしてくれ、それから、四人だけでは不便だろうから坪井隊からあと五、六人追加させよう」。この会談はこれで終り、近くの貨物廠に行き一泊した。虜-P.92

どう見ても泥縄状態にしか思えない箇所であるが、これでもまだ良好な状態だというのが偽りのないところで、ヨーチンで澱粉を調べることもせず、また図鑑すらない状態でただひたすら口に入る物を放り込んでいたという記述は、南方戦線で飢渇に陥った部隊の多くが残しているところである。わたくしは小学生時に雑誌の付録の実験セットでヨウチンを米にたらし、濃紫色に染まるのを目の当たりにした記憶があるが、この当時の兵隊の食事量は1日最低線で米換算で三合四勺(1合は180gに該当、勺は合の十分の一)で充分に動かすなら一升が必要である。とても色の薄い「ヘゴ」では、一体どれほど腹に詰め込む必要があるか軽く眩暈がするところである。そしてこのような状態ではとても多くの将兵の食糧を賄い難いので以下のようなことが始まる。

我々の仕事も大体済み、有富参謀の話では野生植物だけではこの兵力はとても養えないから芋を栽培する事とし、坪井隊の河野少尉、神屋技師らはすでに地形偵察に出て芋の栽培地を捜している。そうなれば強力な部隊がいるので、自分達の研究班と坪井隊、年岡部隊(建技少佐)とを合わし、それに直衛部隊として海軍、飛行隊の一部をつけるので、これから芋の栽培と道路建設をやって貰いたいといわれた。虜-P.94

どちらも平時にすら数か月は要する仕事である。ましてや飢渇はそこに迫っている状況であり、その上米軍の砲爆撃に圧倒され日本軍は原則夜間しか行動ができない状態でこうした命令が下りてくる。何ともやりきれない姿であるが、ほぼ1年前には享楽のマニラとも言われた地域であり、人々は何もしていなかったことを思い起こすと、これも偽りのない日本人の姿なのだなと腑に落ちるところがある。 そして以下の記述も至極納得できる。

大和盆地に芋を植えるというので坪井隊の兵隊が芋蔓取りの斬り込み隊を組織し一週間の予定で出発した。敵に会わんよう土民の畑まで出て芋蔓を背負ってくるのだから希望者が多かった。十日目位にどうやら芋蔓を持って帰って来たので芋植えがはじまった。しかし芋ができるまでの糧秣はないので、この芋を誰が食べるか考えると兵隊達は働くのを嫌がった。ただ命令だからやる程度の仕事しかしなかったが、坪井大尉だけは上司の御意図大事と張り切っていた。虜-P.100

上記のように食糧がなくなっていった場合に、人々がどのような行動をとるようになるかを次回から紹介してゆきたいと思います。

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読書録其の31―2(生物としてのヒトと人間としての人_2)  

 それでは、先ず小松氏が昭和19(西暦1944)年3月頃に着任した頃の、マニラの状況を述べているので、少し長くなりますがここに引用していきます。

 呑龍から降りたマニラ飛行場の暑さは、ひどいものだった。同行の鼠入大尉と自動車で大東亜ホテルに行く。ホテルでは兵站に行って宿泊券をもらって来るようにというので、自転車の先に腰掛のついた便利車に乗り、城内の兵站に行き、やっと大東亜ホテルの七階の室に泊まる。城内は不潔なところという感じだ。
 ホテル前はダンスホールで、内地では聞けぬジャズをやっている。散歩する男も女もケバケバした服装だ。内地や台湾を見た目でマニラを見ると、戦争とはまったく関係のない国へ来たようだ。すべてが享楽的だ。「ビルマ地獄、ジャバ極楽、マニラ享楽」大東亜共栄圏三福対といわれただけのことはある。安っぽい亜米利加文化の化粧をした変ちきりんな、嫌なところだと感じた。
 店側には東京では見ることもできない靴、鞄、綿布、菓子、服などなど、女房連が見たらまさによだれを流しそうな物ばかりだ。品物の豊かさは昭和十年頃の銀座の感じだ。夜はネオン・サインが明るく、ジャズの騒音に満ちている。悩ましくなってベッドへもぐり込む。蒸し暑い嫌な晩だ。(虜-P.14)

 
この着任にあたり小松氏は、マニラに来る前に内地で山篭りの準備一式を用意してきています。ところが現地につくとこの状態に、何か小松氏自身が内地や台湾で聞かされる「決戦へと向うフィリピン」との余りの落差があり、かつての日本の豊かさ(昭和30年頃まで我国では「あの頃に戻りたい」のあの頃が昭和8年頃であった)が日常としてあるフィリピンが現実に存在しており、そこにいる人の生活も以下のようなものであった。

 サイパンは陥落し、まさに日本の危機であり、比島こそこの敗勢挽回の決戦場と何人も考えているのに、当時(十九年四月、五月)のマニラには防空壕一つ、陣地一つあるでなく、軍人は飲んだり食ったり淫売を冷やかす事に専念していたようだ。
 ただ口では大きな事をいい、「七月攻勢だ」「八月攻勢」とか空念仏をとなえている。平家没落の頃を思わせるものがある
(虜-P.17) 

 この「危機は何時来るか」分っているのにも関わらず、人々は日常生活を送っている。昨日のように、今日も明日も続くと信じて疑わない姿勢は、何もフィリピンだけでなく、戦地に一度もなったことのない地方は、だいたいこのような実態だったことは、他の記録とも照合できる紛れも無い現実の姿なのである。しかし、 こうした日常性が何によって支えられているかを「人」はほとんど考えない、というよりも「人」は自分自身が、困る事が起きて欲しくないという願望を、願望だと認識していないというのが正確な表現であり、その願望の論理は「昨日はこうだった、今日もこうだ、明日もこうに違いない」という形を不知不識に唱えている。

 この論理は、我国の「危機管理」が実質できないくらいに厄介千万なものである。昭和19年初頭のフィリピンという、まさに危機がそこに迫る場所ですら強力に作用する。彼等は「今日も店で品物が買えた」、「今日も街はネオンがついていた」、「今日もそこかしこでジャズや映画の娯楽もやっている」という事実を提示した後で、願望の最たる「だから明日も大丈夫」だという話をする。ではこの論理がどのような時に崩壊していくかは、以下に引用するようなところである。

 だがそのとき、だれかが、危機から脱する道はこれしかない、と具体的な脱出路を示し、そしてその道は実に狭く細くかつ脱出は困難をきわめ、おそらく、全員の過半数は脱出できまい、といえば、その瞬間、いままで危機々々と叫ぶ大声に無関心・無反応だった人びとが、一斉に総毛立って、その道へと殺到する。危機というものは、常に、そのように、脱出路の提示という形でしか認識されない。(日-P.42)

 この反応は、生物としての「ヒト」が、その生命活動維持の為に、他の総ての人を押しのけるという、どこでも見られる反応である。俄かに信じがたいと言われる御仁もおられるでしょうが、今年の3月11日の大地震より2日経過後の、関東地方では別に珍しくも無い、人びとの「買い溜め」の姿を見ていただくより他はないと言うしかない。私は、たまたまぼんやりした性質のために、回りの人びとの殺気立った姿を、不思議な目で見ていたので、強烈な印象が残ってしまっているだけである。ただ、「人」が「ヒト」に変わって行くときの恐ろしさを、少しだけ理解することができただけであった。

それでは今回はここまでとして、また続きを書いて行きたいと思います。

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