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読書録其の27(古典を軽んずれば才子なる誤謬の代償) 

書名:世界一シンプルな経済学
著者:ヘンリー・ハズリット
訳者:村井章子
出版社:日経BP社
価格:(金2000円 + 消費税)
刊行年:平成22(西暦2010)年6月 1版1刷

我国では、「古典」と聞けば脊髄反射の如く「化石」や「因循姑息」と決め付ける悪い癖が明治時代から大幅に増幅した感がありますが、これはかつて私が学んでいた経済学でも事情は同じものでして、とかく「古典派」経済学というのを軽んじておりますのが現状です。しかし「古典派」経済学というのは、いわば「基礎」、「原論(我国では「経済原論」なる看板でマルクス経済学を教える御仁もおりますが)」もしくは「大前提」に当たるものですから、これを軽視すると、世の才子が繰り広げる「空中楼閣」議論にひたすら付き合わされるという時間と労力をおよそ「経済」の字とは程遠い状況に陥る可能性が高くなります。

今回紹介しますのは、経済学の「古典派」という人々がどのような視点と前提で世の経済活動を見ているかを、平易に噛み砕いて説き起こすという仕事をおこなっております。さて、前置きが長くなりましたがいつものように紹介をして参ります。

(※):私注となります。

・だがこの人たち(※筆者が書いた時代は西暦1940年代の頃なので、社会主義経済学やケインズ経済学を指している)は、長期的影響を無視あるいは軽視するという、もっと重大な誤りを犯している。(※中略)彼らの思想や結論は非常に保守的で、意外にも一七世紀の重商主義と共通点が多い。実のところ『新しい』経済学者は、古典派の経済学者がきっぱり縁を切ったあらゆる古い誤謬に陥っている(P.10)
→古典派経済学の一番の強みは経済における長期影響を理解するのに適しているところです。しかし、我国に限らず多くの国で、特に「国家百年の計」という言葉を述べる御仁というのは、よくこの古典派経済の長所を全く無視するという挙に出ます。

・究極的には供給は需要なのである。自分が作ったものを供給するのは、ほしいものと交換に差し出すためだ。つまり農家は小麦を供給することによって、自動車なり何なりの需要を形成する。これらはすべて現代の分業や交換経済につきものである。(P.29)
→これが古典派経済学の大前提の一つである。

・だが政府は、どこかからまず取り上げない限り、あるいは最後にはどこかから取り上げない限り、財政支援を行うことはできない。政府の資金は、元をだどればすべて税金である。ご自慢の「公的融資」にしても、結局のところは税収でまかなうことが前提になっている。(P.65)
→どうも何かあると直ぐ「国(政府)はどうした」という言を悲憤慷慨調で述べる人があるが、結果として「他人の財布」に手を入れる真似を推奨していることに無自覚なのが気になる点である。

・文明が進歩すれば雇用は減るのであって、けっして増えはしない。現在のアメリカで児童労働がほぼ姿を消し、高齢者の就労が不要になり、また多くの女性が労苦から解放されたのは、国がゆたかになったからである。(P.110)
→つまり「完全雇用」というのは近代経済として目指す「理想」ではないということが前提にある。

・そのうえ、外国向け融資推進論を検討すると、必ず肝心な部分にある重大な誤りが見受けられる。それは、こうだ。たとえ外国に貸した金の半分(または全部)が返済されないとしても、アメリカはやはり裕福になるはずだ。なぜなら、これらの国では輸入需要が高まり、米国製品を買ってくれるからである、云々。だがすぐに気づくとおり、アメリカの品物を買ってもらうために外国に金を貸し、それが返済されなかったら、アメリカはただで品物を献上したのと同じことになる。ものを呉れてやって金持ちになる国はない。貧しくなるだけである。(P.134)
→残念ながら、これを「先行投資」または「将来への布石」なる言葉で推奨する手合いが我国でも絶えないのが現状である。

・ジョン・スチュアート・ミルがはっきりと指摘したとおり、いかなる国にとっても、対外貿易の真の利益は、輸出ではなく輸入に存するのである。輸入をするからこそ、消費者は、自国の品物を買うより安い値段で外国の品物を手に入れることができる。あるいは、自国では生産できない品物を手に入れることができる。アメリカで言えば、コーヒーと紅茶がその代表例だ。よって総合的に考えれば、一国にとって輸出が必要なほんとのうの理由は、輸入をまかなうことに尽きる。(P.138)
→我国は幕末の開国から昭和40年代半ばまで常に外国から欲しいものが多い状態(入超)であった。しかし考えもなしに徒に欲しいものを買っていけば、その末路は破産(19世紀から20世紀の常習犯に近い南米諸国やメキシコに、最近ではジンブブエやギリシャ等)という惨事しか待っていないため、何とか知恵を絞って国産品を製造したり、代金の元手を稼ぐ行為(輸出)に血道を上げていたというのが偽らざる我国の姿である。

・どんな品物でも、価格を市場水準以下に維持しようとすれば、いずれは必ず次の二つのことが起きる。第一に、その品物の需要が拡大する。割安なのだから、消費者はたくさん買おうとするし、それだけの購買力も持っている。第二に、その品物の供給が減る。消費者がどんどん買うので、通常よりも早く売り切れてしまう。それだけでなく、生産者が意欲を阻喪する。価格が抑えられているため利益は減り、ひどいときには儲けがなくなってしまうからだ。限界生産者(※損益分岐点の高い生産者)は立ち行かなくなるし、きわめて効率のよい生産者さえ、売れば損が出る事態になりかねない。(P.194)
→第二点をもう少し細かく補足すると、早く品物がなくなるということは品物の「原材料」の仕入れ間隔が短くなり、量が増えることを意味する。これは当然原材料の希少性を高めるため原材料費の上昇は避けられなくなる。これが損益分岐点を押し上げることになり生産者を苦しめるという結果になるのである。

・ここでほんとうに問題(※賃金引上げについて)なのは、どんな方法でそれを達成するか、ということである。この問題に答えるときには、いくつかの自明の理を見失ってはならない。それは生み出した富以上のものを分配することはできない、ということである。長い目で見て、労働者が生産した以上のものを労働者に支払うことはできないのである。(P.230)
→経済学だけではないが、得てして学問というものは良かれ悪しかれ「常識」の再確認がことのほか多いのである。

これ以上はただただ冗漫なる引用になるだけなので、これにて本書の紹介はおしまいとします。さて、ここまで読んで頂いた方に一つだけ助言したいと思います。まず本書の第一章を立ち読みでかまいませんので目を通してみます。もしそれで少しでも癪に障ると感じた人は、率直に言いまして時間の無駄にしかなりませんから速やかに、且つ丁寧にもとの位置に戻すのが良いと思います。上記以外の人でありましたら裨益するがこと大きいと思いますので是非とも御一読をおすすめ致します。
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さまよえる神話(その1―戦前『オタワ体制』の実態) 

ある専門分野においてはとっくに論破され消え去っているが、その分野以外ではまったくもって呪縛のように残っている議論や論題なるものを、私は「神話」と定義いたしております。今回遡上に挙げてみるのは西暦1932年7月において開催された「オタワ会議」により、英帝国内のブロック経済体制が発足し「ポンド・スターリングブロック体制」により我国の貿易体制に著しい打撃を生じ、我国の中国大陸進出に拍車をかけることになったという「神話」であります。

何故に神話断言するかは以下の表を読んでいただければ一目瞭然だと思います。

          輸出                   輸入 (単位は百万円)
        総額    英国植民地へ    総額     英国植民地より
昭和6年    1,147      241        1,235         319
昭和7年    1,420      343        1,431         338
昭和8年    1,861      421        1,917         530
昭和9年    2,171      519        2,282         682
昭和10年   2,499      554        2,472         699
昭和11年   2,693      558        2,763        761
昭和12年   3,175      613        3,783        1,004

(※この表は、渡辺鉄蔵『自滅の戦い』P.107の表より作成、英国殖民地には香港、英領インド、海峡植民地、カナダ、エジプト、南アフリカ、オーストラリア、ニュージーランドを含む)

ちなみに当時の英国も含めての世界の貿易総額は世界恐慌(西暦1929年発)のあおりから半分近くに下落しているような状況なのですが、我国の輸出入の旺盛さはそのことを無視するような突出振りでかつ、その貿易総額に「英国圏」が貢献しているのは数字を見ると一目瞭然であり、当時の我国から見た「ポンド・スターリングブロック」なるものの実態は看板倒れも良いものだと言うことが理解できると思います。

どうしてこうも事実と「神話」の乖離がおきてしまったのかについては、また別の機会において触れて行きたいと思いますが、「神話」をいつまでも事実として歴史の教訓(※私見ながら歴史からこれを引き出そうとする助平根性を嫌うものです)なるものを述べることが如何に危険な行為かを知る一助になればとも思います。

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読書録其の25(『援助』を振返る) 

書名:傲慢な援助
著者:ウィリアム・イースタリー
訳者:小浜裕久・織井啓介・富田陽子
出版社:東洋経済新報社
価格:(金3400円 + 消費税)
刊行年:平成21(西暦2009)年9月 初版

それでは、いつものように紹介をして参ります。

(※):私注となります。

・しかし道路が未整備で、作ったものを市場に運ぶ輸送費は道路がよく整備されている場合と比べて五倍も高く、その結果チンウェの給料も上がらないし、将来への希望もあまりない。道路アクセスが悪いので、ヘルス・ワーカーも学校の先生のオクプジェに来てくれない。私はアフリカのでこぼこで穴だらけでどろんこの道を車で走ったことがあるが、まさに難行苦行だった。(P.30)
→開発援助は生産面に重点を置かれがちであるが、こうした地味な交通アクセスの整備をしたほうが現地の人々の自助を支援できるのではないかと考えさせられる。

・よく一緒くたにされる二つの問いを区別しなくてはならない。一つは先進国は援助で何ができるか、という問いであり、もうひとつは、どうすれば途上国の長期的発展が実現するか、という問いである。この本は第一の問いに答えようとするものである。援助に第二の問いの解答にはならない。(P.38)

・つまり一九五〇~二〇〇一年の期間、外国援助が平均以下だった国々は、外国援助が平均以上だった国々と同じ経済成長だったのである。つまり貧しい国は援助を受けなくても、プラスの成長をするのに何の困難もなかったのである。(この分析をより詳しく知りたい読者は、Easterly (2006)をみたほしい)。(P.50)
→『開発援助』というのが統計上から見て幻であったということか。

・Burnside and Dollar(2000)にもClemens et al.(2004)にも、援助機関とその擁護者が強調したがらないもう一つの解釈がある。少しでも成長の効果がある場合、両研究とも、より多額の援助がすでになされていると、追加的援助からの成長効果は小さい、ということを明らかにした。Clemens et al.(2004)は、援助が受入国のGDPの八%に達したとき、成長への効果がゼロになり、その後の追加的援助は成長にマイナス効果を持つといっている。これはビッグ・プッシュ(※途上国に巨額の『開発援助計画』を実施すること)の理由を真向から否定している。(P.62)
→善意が良結果を産むとは限らないという端的な例

・長年中央計画経済を研究していたメリーランド大学の経済学者ピーター・マレルは、一九九一~九三年の一連の論文で、ショック療法はユートピア的な社会改革だと批判していた。当時彼の主張は受け容れられなかった。(※中略)ショック療法に対するマレルの批判が正しかったことを証明したのは歴史であった。「現存する制度を軽蔑しきっている。……歴史、社会、現存制度の役割は、改革プログラムを決める上で全部ちっぽけな問題だと考えている。……市場経済を作るためには破壊を伴うものだと考えている。……ショック療法者は、テクノクラート的な施策の実施はきわめて簡単だと考えている。……現在の制度をすべて否定しなければならないと考えている(Murrell 1993) (PP.75~76)
→我国では、「市場主義」から今度は「規制主義」へと論を変える経済学者が多いのは、根本において「既存体制」を軽侮していとも容易く「改革」の実施ができると思い込む欠陥を抱えているためか

・効率的市場に通ずる道よりも、安定的な民主主義に通ずる道のほうが、もっと茨の道である。市場と同様、民主主義が機能するためには、フェアプレーのルールを地道いボトムアップ方式で育成していかなければならない。(P.139)→間違っても「選挙」をやれば「民主主義」だと思い違いをしてはならないということか

・しかしながら、援助国に対しても、ショック療法や画一的な計画の推進には絶対反対していかなければならない。これらの改革は、段階的に、小刻みに、実験的に行うべきで、また対策は国ごとやセクターごとに異なるであろう。(※中略)最後に、欧米諸国の政治指導者や社会活動家に、途上国の圧政を知らせ非難することが必要である。しかし、欧米の政府・機関が、途上国の悪い政府を良い政府に変えてくれると期待してはいけない。(P.181)

・この異常な症状(※外国援助の評価基準がインプットの『援助額』になっている)にも、少なくとも理論的には解決策がある。豊かな国において援助機関を監視する時、援助の実行額(および彼らがファイナンスする支出)を成果のものさしとして使わないようにすればいいのである。(※中略)援助を批判する人々は、豊かな国の国民と政治家を説得して、援助支出額で援助機関を評価しないようにすべきである。重要なのは援助の成果なのである。(P.211)

・開発は複雑であり、貧しい人々の力は弱く、受益者からのフィードバックを得たり失敗から学ぶことは難しい、というわけで、外国援助はそもそも難しい問題であるということをご理解いただきたい。包括的な援助フレームワーク、中央の計画、グローバルな目標などというのは、一切合財ゴミ箱に放り込んでしまおう。現地の人々のニューズを察知し、それぞれの現地の実情に合わせた援助をしよう。(P.237)
→そして「途上国」を導こうなどという迷妄も併せて捨てなければならない。

・治療に使われたお金が、有効な予防に使われたら、治療によってエイズ患者が一年延命する代わりに、三人から七五人の新しいHIV感染者を回避できるだろう。エイズの予防ではなく治療にお金をつかうと、エイズ危機を改善するのではなく、悪化させる。(P.292)
→援助は、こうした「数」の効率性が非情なまでに実例として突きつけられる一例である。そして原則として援助は「より多くの命を助ける」もしくは「より大きな被害の拡大を防ぐ」という観点から実施する必要性がある。

・預金者保護のため、いい加減な銀行に対して政府は厳しく監視すべきだというのは通説だが、彼らの研究によれば、銀行監視が強くなればなるほど健全な銀行業の発展は阻害されるという(彼らはこの場合逆の因果関係もコントロールしている)。健全な銀行業の発展は貧しい人々の生活改善に重要な要素だが、もし健全に銀行業を発展させたいなら、彼らの研究が示唆することは、厳しい銀行監視ではなく、銀行業の情報開示のほうに重点を置くべきだということになる(Barth et al. 2005)
→我国にも明治・大正・昭和初期までは「無尽」という金融機関が存在していたが、もしこれらが総てが政府の厳しい監視下に置かれていたら我国の産業発展は大きく遅れていたことが予想できるだけにこの部分には大いに首肯できる。

紹介はここまでとして、後は本書を読んで頂きたく思います。そして本書を読了した後で、「その国を改善するのはあくまでそこにいる国民」の手で行うしかなく、援助はその人々に対するキッカケやほんの手助け以上のことを望むことはできないのだという、当たり前の事を実感できるのではないのかと思います。

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