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読書録其の32-5(自由の扱い難さについて5) 

それでは、前回からの続きに入る。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 以上の日本的倫理は、もちろん西欧にもあり得る。ただしそれは家族内の調和の倫理であり、それは、その存立自体を目的とする結合であって、一つの目的に対応する組織ではない。では、この日本的状態は、前述の自由討論(※フリー・トーキングとルビ)によって、打破し得るであろうか。理屈からいえばできるはずである。確かに「自由」という概念と「組織」という概念があればこれを打破できるし、第一、はじめからこのような組織の家族的結合は起こらないはずである。

 だが実際には、以上の日本的平等は根強い伝統であって、これを無視した場合、それは伝来の教義を無視したに等しく、伝統的な"人間への価値観"を蹂躙したことになるから、これへの反発は決定的であり、それを行った者は抹殺されねばならない、という結果すら生ずる。 日本における暗殺は、森有礼(注:初代文部大臣、教育制度の基礎を固めるが、言動が欧米的との批判もあった)の暗殺以来、ほぼ、この伝統的価値観無視への反発から起こっている。それについては今までも取り上げたが、ここでは、昭和テロリズムの先駆者、安田善次郎(注:実業家。安田財閥の基礎を築く)の暗殺者朝日平吾の「革命の目標」を記すにとどめよう(小島直江氏の『奸商を葬った"死の叫び"』の要約による)。

 (一)奸商(悪くてずるい商人)を葬ること。(二)既成政党を粉砕すること。(三)顕官(高官)貴族を葬ること。(四)普通選挙を実施すること。(五)世襲華族世襲財産制を撤廃すること。(六)土地を国有となし小作農を救済すること。(七)十万円(※大学卒の初任給が約100円の頃)以上の富を有する者は一切を没収すること。(八)大会社を国営となすこと。(九)一年兵役となすこと。(※当時の兵役は2年)

 彼の掲げた目標は、実は、その後の暗殺者の掲げた目標(二・二六事件も戦後の爆弾魔も含めて)の原型といえるもので、以後の声明もだいたいこれを一歩も出ていないものが多い。
そしてそこには常に、暗殺もしくは"革命"終了「以後」の展望がないのである。なぜこうなるのか。そこにはさまざまな要因があるが、これら暗殺犯人の獄中記などを読むと、そこになるものは、組織的家族主義に構成された社会は実に強固で、それは、非常手段によらねば絶対に動かし得ないものだという、一種の、暗い絶望感が常に底流として流れている。

 そして、そう構成された社会は常に、戦前・戦後を通じて「国体の本義に反する」いわば、日本の社会にあってはならないものと、規定しているのである。それは彼らの動機が常に「天の声」「天意」「天誅(注:天罰)」といった一種の絶対制を背景としているのでわかる―――もっともこれは戦後は、平和と革命の大義となっているのであろうが―――。そしてそれは「血盟団事件(注:一九三二年に右翼団体が起こした団琢磨らへの暗殺事件)判決理由書」における彼らの動機にも表れている。少し表現を変え、漢字をかなに改めたら、戦後における同種事件の動機と人びとが読み違えるであろうと思われるほどのものである。

 これは、この基本にある考え方が、戦前・戦後を一貫する普遍的なものであること、また、ともに組織という概念も、自由という概念もないことを示している。「・・・・・・支配階級たる政党、財閥、特権階級は腐敗堕落し、国家観念に乏しく、相結託して私利私欲に没頭し、君民の間を疎隔し、目前の権勢維持に努め、事毎に国策を誤り、為に内治外交は失敗し就中農村の疲弊、都市小中商工業者及び労働者の困窮を捨てて顧みず、幾多の疑獄事件は踵を接して起り、国民教育はその根本を個人主義に置き、国体の絶対性につき何等教うるところなく、知育偏重に流れ徳育を忘れ、延ては国民思想を馴致する(注:しむける)等、政治経済思想教育外交等あらゆる方面に極端なる行詰りを生じ、このまま放置するにおいては国家は滅亡の他なく、・・・・・・」

 すなわちここではすでに「思考の自由」は否定されており、従って、他のいっさいの、自由なる発想に基づく実際的改革も、現実には存在しないのである。ただ彼らに共通することは、「こわしてしまえば、自然発生的に、新しい秩序ができる」という一種、不動の信念なのである。この信念こそ、実は彼らがどうにもできないと感じている、組織的家族をつくりあげているその"信念"とまったく同じものである―――同一の伝統に従っているものが同一になるのは、当然といえば当然だが―――。

 このことは、もし彼らが自らを組織化して大規模に事を運べば―――いわば昭和維新が完成されれば―――完成して出てきたものが結局同じものであることを予見していた。そしてその苦しい実験のような形でできた「軍部政権」はまさに同じもの、否、もっとそれが極端化されたものであったことに、表れている。これは、「一五年周期」を何回繰り返しても、経済的体制が「いわゆる自由主義」から社会主義に変わっても、同じことであろう。(PP.209~213)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 

 私が覚えているだけでも、上記の朝日平吾式の議論は、細川政権誕生、社会党連立政権誕生、構造改革論とIT革命論の流行、グローバルスタンダードの流行、小泉郵政改革選挙、2年半前の民主党圧勝選挙、そして近年の大阪都構想選挙、いずれもの何らかの既得権益打破とそれがなされれば、自然と上手くいくことを暗黙の前提としているとしか思えない、極楽トンボな改革論議は常にセットで議論されていたことを思い出す。そしてその時にその極楽トンボ振りを指摘する人間の自由などは一切認めず、いともたやすくそういった人々を「改革」への賊徒か反動か愚鈍なる手合いと見て好き放題に罵詈讒謗をするか、完全に無視するかどちらかしかしないのが現実(私自身も前者は無いかもしれぬが、後者なら間違いなく何度かした覚えがある)であった。

 いま新古書店で廉価で売られたこの手の改革本を、虚心坦懐に見れば私の言っていることが虚偽ではないと理解できるであろう。しかし、この甚だしいエネルギーの浪費を続けている余地は日本ではもうほとんど残っていないというのが現状(昨今騒がれているギリシャはこの段階はとうに過ぎて、方向転換の余裕など全く無い)であると認識している。今は希求されるほど自由思考と自由討論が必要な段階に来ているのである。もし今この時期をまた日本社会の不滅を前提にしたような「既得権益打破と極楽トンボ改革案」などに浪費してしまえば、その先は以下のような悪夢としか呼べなくなる状況に陥る蓋然性が高いと考えている。

 「そしてわれわれが近づきつつある年齢分布から見て、四〇歳以上の多数者がやがて自分たちより若い者に命じて自分たちのために働かせようとしても無理からぬことになる。こうした点にいたって、ようやく肉体的に強い人たちが反抗をおこし、老人たちからかれらの政治的権利と扶養を受ける法制上の要求を奪いとることになるであろう。(中略)もしこれが前もって計画されたインフレーションの程度であるとすれば、結果的に今世紀末に引退する人の大半は、若い世代の慈善を頼りにすることが確実である。そして究極的には道徳でなく、青年が警察と軍隊をもって答えるという事実が、問題を解決するであろう。自分自身を養いえない老人の強制収容所が、青年を強制するしか所得をあてにすることのできない老人世代の運命となるであろう。(ハイエク『自由の条件Ⅲ』p.61)」

 もし、上記の私の杞憂を笑い飛ばされないのでしたら、本書に書かれた日本人の陥る思考窒息状態をもたらす要因や、その自縄自縛についての自己把握に裨益すること大きい著作と考えますので一読をお勧めしたく思います。

第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2
第三回 自由の扱い難さについて3
第四回 自由の扱い難さについて4
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読書録其の32-4(自由の扱い難さについて4)  

では、前回からの続きとなる。
どのようなものに吾人は縛られているのかのところとなる。

※原文では調和には「ハーモニー」を正当には「ジャスティス」とルビがある。

 われわれの世界は、自己の発想を内心で自己規制し、その規制された発想を、調和を考慮しつつ、相手によって自己規制しつつ公表する世界である。従ってここで探究すべきものは、この規制がいかなる原則によって行われているかであり、それが、結果においてわれわれの行動をどのように規制し、その結果どのようにして組織的家族ができあがり、それが社会をどう規定しているか、という問題であろう。

  われわれが自由を自己規制する大きな規範はまず前述の調和であり、次が平等である。この概念は日本にも西欧にもあり、いずれの世界であれ調和と平等が求められることは、否定できない。しかし前述のように、西欧にはその前に正当(注:公正)という意識があり、この正当に対応する形で調和も平等も要請される。調和は前述したから、ここで平等を取り上げれば、新約聖書以来の彼らの「平等に・・・・・・」という概念は、むしろわれわれの公正を前提とした平等、すなわち「公平に・・・・・・・」に近いかもしれぬ。だから今の日本では、公平も平等も同じように使われているが、前者を一応、正当という概念に対応する平等という意味にとろう。

 たとえば一つの正義がある。それに基づいて人は処断される。仮に「殺人者は死刑」という正義が平等に人びとに臨むとき、それはすべての人に対して公平であらねばならない。「神の義」という言葉は、最も原初的な意味では、この点においてまったく公平な客観的正義の意味であり、それは等しく万人に平等に臨むはずである。もし平等に臨まないなら、それはもはや「義」とは認めがたいのであり、かつ、人は神の前に平等とはいい得ない。従って、もしこの世において逃れ得た殺人犯がいるなら、それは来世で罰せねばならないか、もしくは終末の時において最後の審判で罰さねばならない。そうでない限り、彼らはそれを平等とは認めず、それがなければ調和とも考えない。
 
 この考え方はもちろん、前述の輪廻転生と同じように、人びとが、客観的な「義」という概念が存在する―――個人からも団体からも離れて―――と考え出したのがはじめてであり、すべての人間は、その「不動の基準」を一種のメートル原器(注:一メートルの長さを示す白金イリジウム合金製の旧標準器)のように考えて、これに合せた尺度を尺度として生きなければならない。そして「公平」を計る尺度はこれだけであって、人びとの恣意であってはならない、とする考え方である。従って、何らかの形の客観的審判が存在し、それが公平に適用されない限り、公的な義はあり得ないと彼らは考える。そして義に基づく善悪という規範があり、それがもし平等に適用されるなら、その適用が今であれ、終末であれ、公平に適用されない限り、善悪という規範そのものは存在しない、と彼らは考える。
 
 この考え方は「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という考え方とは相いれない。こう考えることは、彼らにとっては善悪という規範の放棄であり、正当化の廃止にほかならない。そしてこれは、彼らの見方からすれば、正当・善・悪といった概念の放棄であり、一つの義を中心とした組織的世界、すなわち組織神学的な思考の消滅となるはずである。これは、人間を、一つの倫理的組織の中で把握することを拒否する。いわば一つの倫理的規定が、客観的な体系の一環として存在し、すべての人が平等にそれを規範とすることを前提としたいっさいの世界が、すなわち、それを基にした組織の世界が崩壊してしまうことである。
 
 この原則、いわば組織神学ないしは組織的思考の排除は、究極には、いっさいの現実の組織を破壊するか、空洞化するか、変質化するかしてしまう。たとえば一つの組織が、ある目的に対する正当化された位置にあり、それに基づく組織内の基準は、「神の義」のごとき意味において公平に成員に作用しなければ、それは組織の自己否定になる。簡単にいえば、勤務を評定するなら、厳密な客観的基準に基づき公平にそれが適用されなえければ、その組織は、少なくともその目的に対して自己を正当化できなくなる。
 
 働いても働かなくともすべて「平等」は、この基準からいえば、罪を犯しても犯さなくてもまったく同じというに等しい。最大の完全な不平等になるわけだが、日本では「勤勉なおもてボーナスをもらう、いわんや怠惰をや」で、すべて平等に"救済"されるわけである。この救済が逆に一つの調和をもたらし、それがその組織を組織的家族と化し、逆にそれが組織内の他の要素を強化する場合はあり得る。ただこの強化は、組織の目的への正当性は失う。だが、この結合によって組織は植物組織となっても存在し、倒壊するその直前まで、はっきり立っている。(PP.206~209)


 学生時代の頃図書館で良く西暦1970~80年代初頭の商社マンの体験記をいくつか読んでいるときに、外国人と話していて「ところで君の信仰はなんだ」という問われてその人は質問の意味が分からず素直に「特に信仰はないけれど」という答えをして、相手が驚いた眼でこちらを見ていたというものや、もう少し突っ込んで聞いてくる場合は「しかし、貴方は自分を律しているし、約束も違わないし、何より人間として素晴らしいのだが…」という困惑気味の顔を向けてきたという記述を読んで、異国の人は妙なことを聞くなと思ったものであった。そしていくつかの書籍には西洋人は「無宗教や無信仰を蛇蝎の如く嫌う」という書を読んだことはあれど、完全に聞き流していたのが私の実際の姿であった。



 それから歳月は流れ、妙なことから文語聖書を読みだしてしまったときに、出エジプト記、申命記、ヨシュア記などに目を通すときに何か強烈な違和感を覚え、その漠然とした違和感を抱いていたところで山本氏の上記の記述を読んでようやくその恐ろしい前提を知ることができたのであった。上記の商社員氏へのある問いかけの意味は私の偏見溢れる意訳をすれば「あなたの逆鱗はなんですか、それを教えてください、私はあなたと親交が長く続くのを欲していますから、絶対にそれに触れないように努めますよ」というものなのである。人は土足で自分の掟を踏みにじられるのを決して許さない、それは相手が故意でなかったとしても、正義の念はその人間を極限に不寛容にして牙をむいてくるからである。彼等は血にまみれた宗教戦争でそれを知るゆえにこの問いかけは切実なものである。

 彼らは北極星の如く不動の基準から己の規範を導きだして、自己の行動も組織をも規定している。そのため相手もそうだと思い込んで上述のような問いを向けてくる。彼らを不寛容だと思うものもあるであろうし、嘲笑うものすらいるかもしれない、もしここで「欧米不寛容、日本寛容」としめくくるならメデタシメデタシなのかもしれない。だが残念ながら、この世はそんな目出度いものでは無い、自覚せぬ我国に潜む不寛容とそれが生み出す問題とはなんなのかについて次回触れていきたい。

第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2
第三回 自由の扱い難さについて3

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読書録其の32-3(自由の扱い難さについて3) 

前回に続き今回は、自由討論(フリートーキング)の具体説明に関する部分の紹介をしてゆく。

※以下の引用文は自由討論の箇所にルビでフリートーキングがふってある。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 これは新聞批判でも記したが、以前、キッシンジャー(注:アメリカの元国務長官、国際政治学者)が「日本人記者はオフレコの約束を破る」といった意味の発言をしている。当時の新聞を読むと、彼が何をいっているのか記者にも編集者にもわかっていないように思われる。

 彼は「自由討論」の権利すなわち、彼らの考えでは、人間のもつ基本的権利の一つを侵害しているといっているわけである。 この「自由」という概念が、実は、われわれにはない。だがこの概念の底にあるものはおそらく「自由な思考」と「思考の自由」という概念であろう。そしてこれが「自由」の基本のはずである。

 確かに人間は、さまざまのことを考える。否、絶えず妄想を浮かべているといったほうが適当かもしれぬ。「自分の妻の死を願わぬ者はなかった」とか「上役を打ち殺してやろう」という衝動に駆られなかった者はいなかったなどという物騒な言葉もあるが、事実われわれの頭脳の中は、一瞬後にはおそらく自分で否定するであろうと思われる、あらゆる種類の思想も妄想もうずまいている。

 人は、この"自由"なる思想・妄想に対し社会的責任を負う必要はない。もし、この思想・妄想がすべて明らかになれば、人間の世界は成り立ち得ない。いうまでもないが新約聖書は、この思想・妄想は神に対して責任」を負うと規定し、「色情をもって女を見た者は心の中ですでに姦淫した」と記している。 「心の中で姦淫している」男女は日本でも多いと思うが、これが、中世のある時期のように、社会的処断の対象となったら、大変なことになるであろう。
 
 自由主義の基本とは、その人間がいかなる思想をもとうと、それによって処断されることがない社会、いわば「思考が解放」されている社会であって、「脳細胞の一つ一つ」を、ある種の徴候から監視して規制しようとはしない社会のことである。
 
 いわば共産主義が立派だと考えようと資本主義が立派だと考えようと、いっさい、自由なる世界であって、その思考に対して何ら社会的責任負う必要がない世界である。―――端的にいえば「そんなことを考えるのはもってのほか・・・・・・」という考え方が存在し得ない世界であろう。

 そして人間がこう考え得るに至るまでは、長い長い「思考解放の闘い」の歴史があった。ただわれわれの世界は、キリシタン弾圧以後、そういう考え方はいっさいない世界(※"もの"とルビ)となった。 いうまでもないが「自由討論」という概念は、この各人がもつ「自由なる思考」を自由に(ということは責任を問われることなしに)出しあおうということである。

 極端な言い方をすれば数人がいっしょになって「自由なる妄想」を出しあい、それらが常に「いまいったことを一瞬後に自ら否定してもよい状態」で語りあいつつ、ちょうど各人がそれぞれ、さまざまに思いめぐらしつつ一つの結論に到達する過程を、数人で行おうという一つの「自由なる思考」の過程である。従って、いまの結論はすぐ否定されるかもしれず、さらにこの否定はまたすぐ否定され、別の結論に導き出されるかもしれぬ。

 こういう「自由討論」の継続性を、ある時点で故意に打ち切った形にして、「あの男はお前など死んでしまえといった」という形で発表すれば、それは一種の「自由への侵害」であり、「自由討論」なるものをいっさい認めないことになってしまう。
 
 キッシンジャーの言葉は、日本人の新聞記者には「自由討論」とは何かという認識がない、いわば「自由」ということの意味を知らないから、その点に留意しないととんだことになる、といった意味の発言と私は理解するが、確かに、こういった「自由」という概念は、われわれの世界にはない。

 従って新聞が、国会の討論に内実がなく、言質の取りあい、言葉尻の取りあい、それを逃れる答弁術に終始していると批判したところで、この状態が改善されるはずはない。というのは新聞の態度も基本的には同じであって、同じことをやっているからである。そのため、自由な発言はあり得ず、討論は常に成立し得ない。

 そして、この最も基本的な自由が認められない世界では、まじめに自由を取り上げれば、聞いた人間が、投書者宮下正一氏のように「思わず笑い出す」のが当然である。いわば、言論の自由が実際には存在し得ないのだから、その他の自由も存在し得ない。そしてこの前提がない社会で「自由意志に基づく選択」などどいっても、その本人がいう「意志」がはたして自由なのか、何らかの規制―――「これが自由だ」という形の規制も既成の一種に過ぎない―――をうけているのか、だれにもわからない。

 そしてこの点が明確でないから、共産圏を見学してきた人が、「共産圏にも自由があるのか」という質問をうけた場合の返答が、実に面白い。たとえば中国の下放(注:文化大革命のときなどに、都市部の青年層を地方の農村に半強制的に送り、各種の格差を解消させようとした運動)が問題になったとき「これはあくまでも本人の自由で、本人が決心するまで周囲で説得するだけで、強制ではありません」という面白い返事になっている。

 こういう返事ができる人が口にする「自由意志に基づく選択」という言葉ははじめから意味がない。いわば「共産主義より資本主義がいいなあ」と考えることは「自由」で、それを「自由討論」の場で「社会に責任を負うことなく」自由思考ないしは妄想の如くに発表し得て、その上での自由意志に基づく決断でないなら、自由という言葉ははじめから意味はない。

 そしてこれが意味ないとは考え得ないから「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからない」がしかし、自由主義とは資本主義だという断定が、いとも簡単にできるのである。日本は確かに資本主義の世界である。しかし、上記のような意味での「自由主義」の世界ではない。(PP.202~206)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 随分長い紹介になっているが、私にはこれにつけ加えるところはほとんど持ち合わせていないし論旨に賛同をするものである。ただ人というのは案外忘れやすいだけでなく、あろうことか「自分は過去とは決別している」やら「過去に囚われない」とかを軽々しく言い放つ御仁があちらこちらで見かける(その同じ御仁が良く『歴史の教訓』などというのを真顔でいうから不思議なものだが)ものなので、36年前の言説が今でも変わらず我国でも有効なことをあくまで愚生の蛇足として述べてみたいと思う次第である。

 昨年、少しだけ世の中を騒がせた「ウィキリークス騒動」の事はまだ記憶に残っていると思うがこれに対して我国での取り上げた中に、ある外交文書の一群の悪口雑言や妄想箇所を指摘して意義ある行為だと主張していた人々が存在し、またある人々は国際関係の赤裸々なる事実が白日に晒されたという意味で偉業だと持ち上げる人士もいた。

 そしてここには、一時外国の評に「ウィキリークス」の自由侵害について懸念を述べたことはほとんど耳に入っていない姿だったのが偽りのない姿であった。懸念を述べた振りをしていても自己の政治立場を補強するものさえあれば、その意義は高く自由の犠牲など大したことがないとする評者もしくは、沈黙を守る評者が多いのが目立った。

 彼等が普段どんな言説を述べていようとも、上記の「自由討論」に対して価値を置いていないことというのは今の我国でも健在というのが痛いほどよく分かることであった。どんなに通信環境が進歩しようとも日本においては、総ての通信環境(掲示番、フェイスブック、ツイッター等)は「自由討論」を全く保障せず、かえって検閲官のように他人の常に始終妄想が交差する思考を切り取って、圧迫や糾弾を繰り返し「自由討論」を破壊することに努めてきた手合いが跋扈するのを何度も見せつけらてきた。その度に検閲する側もされる側も思考の幅は狭くなり自縛して遂には「全く知恵の出しあい」が出来ない不毛な糾弾会場が拵えられるのを、私自身は横目でみているしかなかったのである。

 それが何故そうなるのか、なぜそのような自縛して自らの首を絞める行為をなしてしまうのか、その原則は何なのか次回以降の筆者の考えを紹介してゆく。
 
第一回 自由の扱い難さについて
第二回 自由の扱い難さについて2

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読書録其の32-2(自由の扱い難さについて2)  

それでは、前回の続きに入ってゆく。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ではいったい、「自由」という概念は、この投書者の考えるようなものであろうか。「自由主義とはつまり資本主義」なら、資本主義の発生以前には自由主義は存在しなかったことになる。

 ではいったい、宗教改革のルターの『キリスト者の自由』における自由の概念、あるいは清教徒革命、フランス革命における自由の概念、これらの自由を基にした"自由主義"もまた資本主義なのであろうか。おそらくこの投書者は、自由の系譜を逆にとらえているのである。

 すなわち、「自由」という概念は、西欧の近代化で大きな力を発揮した、それが資本主義社会を招来する一つの原動力となり得たということ、これは否定できない事実で、「自由主義が資本主義を招来しえた」とまでは、極言とはいえ、いうことが可能と思われるが、「自由主義とはつまり資本主義」ではない。

 「自由主義」という理念は資本主義よりはるかに古いものであり、それは人間における「自由意志」の確認にまでさかのぼる。そして資本主義体制が変化することは、そのままこの「自由主義」が喪失することでもなければ、資本主義体制が存続することは、自由主義の存続を保証することでもない。

 自由の前提といわれれば、それは「自由意志に基づく各人の決断と選択」を基本とする状態という定義は、西欧ではそれでよいかもしれぬが、少なくても日本においては、彼らにとっては自明の大きな前提が欠落しているといわねばならない。

 ひとことでいえばそれは「自由なる思考」と「自由なる討論」(※著者ではルビでフリー・トーキングとある)を行い得る権利である。選択とか決断はそれ以後のことであり、同時にこの二つの自由とは「いっさい、責任を負わない」という意味の自由(自由には当然のこの意味が含まれるが)である。

 そしてこの前提がない社会には、それが資本主義であれ社会主義であれ、自由は存在し得ない。ただこれは、現在の日本では絶対に通用しない考え方なのである。

 
 人びとはそれを知っている。従って人は、「自由」といわれれば大まじめでそんなことを口にしている人に対して、「笑う」以外に方法がなくなるわけである。「自由」という概念がない以上、これは無理もないのであって、このことは「言論の自由」を主張する新聞とて例外ではない。(PP.201~202)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 山本七平氏が挙げた「自由なる思考」も「自由なる討論」は只今の我国では皆無といってもよい、この言説がなされた36年前より長足の進歩を遂げた通信環境であろうともこの部分が変わっていないことは率直に認めた方がよい、我国の議論なるものをしても必ず何らかの責任論が発生してしまい、その実現性についての討論が開始され、言葉の定義もせず只管こうした討論が発生し、最後には互いの罵詈讒謗合戦に終わるという救いのない結末に陥ることは余りに見慣れた景色の一つでしかない。

 わたくし自身も覚えているだけでもこうした自由討論時にこのような「実施責任論」を持ちだして議論そのものを破壊したことが何度かあることは、身に覚えが無いとはとても言えないものである。かつての「構造改革論議」(当時の私自身は構造改革に懐疑を懐いていた)の時も、前年の反原発論議(私自身は学生時代から原発推進を考える)の時も、相手の議論を実施責任論で封じようとした欲求を持ち、実際に行使してしまったことも度々ある。

 私なりに何故己自身そのようになるかを学生時代の四書を書き写しながら読んだ経験と、只今毎日少しづつ読み進めている『言志四緑』の内容等と照らし合わせてみて、江戸期に完成された日本流知行合一思想の大きな影響だと認識している。この思考形態からは「フリートーキング」という考え方というものは失格者として烙印をおされる行為であるから、原則として出来ないのが当たり前ということになるのである。

 それでは次回からは、上記のような自由討論(フリー・トーキング)とはいったいなんなのかを、もう少し詳しく述べた部分を紹介してゆく。

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読書録其の32-1(自由の扱い難さについて)  

書名:なぜ日本は変われないのか
著者:山本七平
出版社:さくら舎
価格:(金1,400円)消費税別
刊行年:平成23(西暦2011)年12月7日 第一刷

さて今回の読書紹介であるが、少し変則の紹介となりある一部の所を集中して取り上げてゆくことにする。何故なら日本で明治以来から舶来思想のなかでも最も扱い難いとされているのが自由という概念であると考えている。まずは以下の部分の話を見ると判明する。

※赤字部分は原文では傍点

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
雑誌「諸君!」掲載の渡部昇一教授(注:『知的生活の方法』などのベストセラーがある上智大学名誉教授)の社会主義批判の論文「甲殻類の研究」に対して、宮下正一氏(会社員)が、面白い批判の投書を同誌の編集部に寄せた。
   
 これは日本人の常識における「自由」という概念を探る上で貴重な一文と思われるので、関連する部分を次に引用したい(注:同誌一九七六年三月号)。
「 ・・・・・・さすがに文章は流れるようで、社会主義の問題と全く関係のなさそうな乳幼児の問題から最後まで一気に読んでしまうところだった。けれども最終頁になって『魚のように自由になりたい』という文章が出てきた時、思わず笑い出してしまった。この面白い物語が、こんな真面目な希望にささえられているとは全く意外だった。・・・・・・

 渡部氏は、自分の立場は明確にしないで論文を進めているが、それでも最後に『自由主義を選択することを主張している。自由主義とはつまり資本主義のことだが、社会主義も国家社会主義も資本主義の矛盾が生み出したものである。・・・・・・

 渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからないが、資本主義も初期の資本主義とは違って、かなり自由ではなくなって社会主義化しているし、この趨勢は避けられない・・・・・・」
 
 この投書者は、まず「・・・・・・自由になりたい」という言葉で笑い出し、自由主義とは資本主義と断定し、「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからない」といいながら、「資本主義もかなり自由ではなくなって」社会主義化しているし、「この趨勢は避けられない」と断言している。

 この投書は、おそらく平均的日本人の自由および自由主義という概念の輪郭を示しているであろう。いま日本人にとって最も触れられたくない概念、できれば棚上げしておきたい概念は、おそらく「自由」という概念なのである。

 この言葉は、どう扱ってよいか誰にもわからないから、それが出てきたら「思わず笑い出し」、自由へのこんな「真面目な希望」をもつことは「全く意外」になるわけである。

 といいながらこの投書者は、「自由主義とはつまり資本主義のこと」と断定している。ところが渡部氏は「自由になりたい」といっているのであり、この言葉が示すように、「自由」という概念は、いわゆる自由主義より古い、人間のもつ基本的概念である。

 投書者はこれと、古典的な「見えざる手」の統制に依拠する「経済的自由放任主義」を同一視し、「自由主義とはつまり資本主義」だと断定している。いわばこの投書者にとって、自由とは一に経済上の問題であって、それだけなのである。

 ただ、それでは少し奇妙と思ったためか、「渡部氏のいう自由主義がどんなものだかよくはわからないが」といいつつも、結局資本主義も初期の自由放任主義とは違って社会主義化している、とまた経済上の「自由放任」にもどってきている。 

 このことは、現代の日本において「自由」という言葉が、ほぼこのような枠に限定されていることを示しているであろう。と同時に、この限定の中の評価は、あくまでも否定的もしくは消極的評価であり、できれば触れたくない概念であることを示している。(PP.198~200)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

この文章は、只今現在から35年前の昭和51年に書かれたものである。だが、その内容は奇妙なほどに既視感を覚えさせるものである。私自身の記憶ではこれは、12年近く前の私の学生時代の構造改革論議でこのような自由化論議を見かけたし、少し前のTPP論議でも見かけたものである。自由というものを経済面だけで捉えており、経済効率化ができるから自由は善で推進するべしとなり、景気が悪くなると自由とはアメリカ(そのときどきの「諸悪の根源」が指定)の押付けなのだから悪だというような議論を横目に眺めていた記憶がある。

ここからは経済の競争力や効率化の視点からしかそもそも自由を評価していないのは、巷の学者や評者に多くみられる態度である。自由とは何かについては余り考えずに、その場その場の状況次第で賛成や反対の外国文献を持ちだすだけなのが目につく、自由経済万歳の時はフリードマンやハイエクを振りかざし、風向きが懐疑論となれば同一人物僅か数年の内にケインズやマルクスを振りかざす始末であり、自由そのものとは何かを考えているというより、経済状況により自由を如何様にでも取引可能なものとして扱っている。

こうした経済自由化論者達を経済思想用語ではレッセ・フェールと呼称しているが、この思考の人々は経済自由化のためなら中央集権政府が望ましいとして、強権で何事かを推進するのを躊躇わない人物だという指摘は、トクヴィルの『旧体制と大革命』で既にされており、私自身の乏しい経験に照らしてみてもこれは肯けるところである。 彼等は口を揃えて「政府が何々すべし」という言葉を頻発している姿が何度も見かけたものだからである。

それでは、次回からは我国の人が明治開化から本当は避けていた自由について著者の考えの紹介をしながらつらつら考えてみたいと思います。

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ジャンル: 本・雑誌

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