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言葉言葉言葉―(第三の道について)  

 物事を爲す時には、必ず優先順位を明確にしておかなければならない。何故ならば、優先順位を明確にしてゐないと、總ての物事を進める際に生じる障碍に遭つた時、簡單に物事の進行を抛棄してしまふからである。この世を見廻せば「思ひつきで行動⇒直ぐやめる」式の何事も出來ない人を必ず見掛けるだらう。

 物事を考へるとき、Aと非Aの選擇をする場面で、日本では必ずといつて良い程に、第三の道やらと呼號するのは愚劣な思考が現れる。何故愚劣かと云へば「Aと非Aの選擇」の大前提は、或る事に對する優先順位の決定に他ならない。巷の「第三の道」云々といふ思考は、この大前提を崩潰させることになる。その當然の歸結として何事も優先順位を決められず。結局何もしないといふ結論が導かれるのである。

 このやうに物事の大前提を崩潰させる思考を混入するのは、私にはどう考へても愚かとしか呼びようが無い。それ故に私は、「第三の道云々」と云ふ思考が如何に危險で愚かな事だと云ふのである。それにも關はらず日本では悧巧な人の多くが、この碌でもない「第三の道と云ふ」言葉に狐憑きのやうに唱へてゐる。何とも不可思議な光景である。
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言葉言葉言葉―(政治關心の低さ)  

 「日本人は政治關心が低い」などと云ふ言葉を賣り歩く御仁が多い。更にさうした御仁は大抵この後に「もつと國民(市民住民人民)は怒るべきだ」などと云ふ人も多い。かうした人の論を仔細に眺めれば、なんてことは無い「俺の主張に同意する奴が少ない」と云ふやつが大半である。

 彼等の云ふ「政治に關心が無い」と見へる殆ど總ての人は、人物金時間の配分が自分の損得になる事には敏感な人である。政治とは詰まる所「人物金時間の配分」を何處に重點を置くかと、それを何時まで固定するかに、かかつてゐる事である。さうした事に過敏に反応する大半の日本人が「政治に關心が無い」など冗談も大概にすればよい。

 政治に關心が無いのではない。默つて自分の懐に入つてくるのを、鵜の目鷹の目で待ち構へてゐるだけである。如何にも怠慢な姿だが、世の大半の姿はかうしたものである。從つて目に見える御利益さへあれば、殆ど總ての日本人は、その分配行動を容認するのだ。
 
 さういふ大多數の國民の支持が欲しければ、「人物金時間の配分」の技術と智識を磨くのが、一番の近道である。十年一日の言葉を讀經の如く唱へる事で、己の意見の支持を頂戴しようと目論む極樂トンボ思考に何時まで現を拔かしてゐるのは、怠慢と云ふより他は無い。

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言葉言葉言葉―(今夏の九州の電力事情)  

 母の實家が鹿兒島にあるので、今夏の九州電力の需要と供給豫測を調べてみた。先づ供給力を見てみる。最大限の樂觀數字で約1730萬KWh、空梅雨による渇水や融通が不可の場合の最小限の悲觀數字は約1510萬KWhである。次に需要である。ここ數年の節電努力を『9割既に織込濟み』で平年竝みの氣温だと約1560萬KWhとなる。『昨年のやうな猛暑』だと約1670萬KWhとなる。

 整理すると以下の通りとなる。
・供給:1510~1730萬KWh
・需要:1560~1670萬KWh(2013年実績:1634萬KWh)
問題は樂觀數字の中を占める火力發電所の問題である。現時點で九州電力の火力發電所は、共同發電所を含めて約1120萬KWhとなる。

 この中で運轉開始經過年數が40年以上經過してゐる火力發電所を列舉すると下記の通りとなる。
1、苅田發電所の新2號機(375,000KWh:經過年數42年)
2、相浦發電所の1號機(375,000KWh:經過年數41年)
3、川内發電所の1號機(500,000KWh:經過年數40年)
4、戸畑共同火力發電所の2號機(156,000KWh:經過年數43年)
5、戸畑共同火力發電所の3號機(250,000KWh:經過年數42年)
6、大分共同發電所の1號機(255,000KWh:經過年數42年)
7、大分共同發電所の2號機(255,000KWh:經過年數41年)
上記のタービンの発電能力は合計約216萬KWh分となる。

 この邊りの火力發電所で何が問題かと云ふと、經過年數による設備老朽化もさることながら、プラントの設計と建設がオイルショック以前ものだと云ふ點がある。その後のプラントとは設計の基本前提が異なつてゐるため、補修や交換の技術も智識も大幅に變更されてしまつてゐる。

 かうした事から一度何か不工合があると、修理や交換が數時間とか數日では濟まない程度に、長期化し易くなるのは避けられない。幾らプラント運用の現場が、奮勵努力しようともこればかりはどうしようもない状態である。

 通常であればかうした火力發電所は、同時期の唐津火力發電所と同樣に長期計劃停止扱ひとなるのが妥當な設備となる。しかるに只今現在といふと繼續運轉にリスクが高いかうした火力發電所の216萬KWh分を、電力供給を果たす數字として繰入れ無理を重ねた「豫備率3%」の實態である。豫備率とやらも數年前までは電力會社では最低基準は7%だつたと云ふ事も世間では知られてゐない。

 これはどう考へても異常事態としか云へ無い。世の中では九州の原子力發電所の再稼働に反對する根據に阿蘇山の大爆發すら心配する程にリスク意識の高い人がゐる。さういふ人達が、何故に老朽プラントの故障や事故のリスクを無視するばかりでなく、新聞に發表された電力會社の需要と供給の樂觀數字だけを鵜呑みにした舉句に「電力は足りてをるぞ」と發言する姿は、まるで戰時中の神州不滅やら特攻精神だと吹聽し、疑義を少しでも差し挾まうとする人々を、非國民扱ひしたヒステリー状態と同一だと私には見へる。

 ヒステリー状態の人は相手の口封じをすることは一時は出來る。それどころか演技として「やらせ」にすら応じさせることすら可能だらう。しかし生憎のところプラントや機械はヒステリー状態の人間の演技を強要したところで無意味である。

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言葉言葉言葉―(員數合はせの果て)  

 「退却では無い轉進である」といふ、ガダルカナルでの大本營發表を、只今の殆ど總ての人は嘲笑ふのである。それなら大地震から眞夏毎の節電要請、北海道では眞冬の節電要請といふのは、電力不足の言換えでしかないのである。この事態も當然嘲笑はれるところなのである。

 それが嘲笑ふどころか只今現在では、現實政策などと述べる者がゐるのは何故か、彼等は心理解決だけを最優先にしてゐるからに他ならないのである。心理解決こそが何より大事だから、事態を正確に把握する言葉を使用制限しようとし、また言換えをして自らを盲にし、當人は根據無き員數合はせの言葉を、威勢良く吐き捨てる存在へと成果てるのである。

 その末路が何を意味するのか、第二次大戰時の日本では員數合はせが猖獗を極めてゐた。前提條件を悉く無視した數合せの論理は、フィリピン戰ではネグロス航空要塞と豪語して、飛行場幾つがあると稱してゐた。ところが、かうした飛行場は少しでも雨が降ると泥まみれになり、使用不可になる代物が多數含まれてゐたのである。

 戰力上の實數を本當に計算すれば「ネグロス航空要塞」といふ呼稱は妄想でしかなかつたのである。また地上に於ては、人員2萬數千がゐると師團相當數1と機械的に勘定するやうになる。これも實數を見ると戰鬪員が2千で小銃となると百丁にも滿たず、實數戰力は1個中隊といふ事が無視されるのである。

 さうした事を只今の總ての人が知ると、何と云ふ妄想とヒステリー思考で日本軍は動いてゐたのかと嘲笑するのである。ところが、員數合はせの宿阿は日本では只今現在に於ても健在なのである。それは大地震から關東に於て、火力發電で足りてゐる云ふ總ての論者が、員數合はせの數字しか見てゐない事からもわかるのである。

 では實際の火力發電所の數字を檢討してみよう。只今東京電力管内に於いて、運用開始時點から40年以上經過した設備を列舉する。五井・姉嵜・横須賀・南横濱・鹿島・大井の6發電所の28ユニットが該當してゐる。その設備の出力は總計11,899,000KWに相當するのである。

 各ユニットの點檢する手間は、一例を舉げれば昭和45年から運用を開始してゐる海南火力發電所の2號機を例にとると、配管が約2200カ所、辯が約4400臺といふ代物なのである。そして、さうした部品に異常が發生すれば、當然ユニットの稼働を止めて、原因を突き止め、對策を行ふ必要がある。部品が無ければ當然、他から取り寄せる必要も出てくるのである。

 信頼性工學からの視點から云ふと、摩耗故障期間といふものがある。各部品の材質が疲勞し、ガタが來た原因により機能が果たせなくなる故障が増大してくる時期である。今の40年以上經過した東京電力の火力發電所の28ユニットは、この状態へと進行してゐるのである。

 ここで問題なのは、既に40年以上經過した現在に於て、當時の部品を作る技術も人も散逸してゐると云ふ事である。かうした事から部品摩耗期間の故障は、數時間や數日程度の補修では無く、調達の手間を含めて數カ月程度の長期間に及ぶ確率が上昇していくのである。

 かうした前提條件を無視して、發電設備のKw數を無邪氣に加算し「みろ電氣は足りてをるぞ」と述べる總ての即時脱原發論者などは、1個師團の員數(實數は1個中隊の戰力)に基づく、無理な死守命令を濫發した參謀連と何一つ變はらない思考方法に支配されてゐると云ふより他は無い。

 小谷秀三『比島の土』に次の記述がある。
「前提條件を示しても、彼等が上官に報告する時はその前提は捨ててゐる。(中略)然し現在の困難なる問題は捨てて下僚の責任とし、現實を忘れた机上計劃を竝べたて、企業に權威ある人の案を無視して、作戰の資料にしてゐるに過ぎない」と云ふ記述は、只今總ての即時脱原發を論じる人と同樣である。

 さう云ふ比較を不愉快千萬でありとして、反射的に反撥し、吾は現實的なる政策だと述べてゐるが、前提條件も實數も無視する現實政策など、言葉遊びに過ぎない。それは砂上の決戰計劃、砂上の死守命令と何一つ違はないのである。それを直視出來ないのなら、妄想とヒステリー状態で逆上してゐた參謀連と寸分違はないのである。

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言葉言葉言葉―(自惚れは死なず) 


福田恆存といふ存在を私なりに考へてゐる。
その影響力は甚大であり、私自身は福田恆存と松原正氏の敷いた思索の道から一歩も出てゐないと言ふ自覺がある。只今の世の中は、福田恆存はその言説を多くの人に支持されるやうになつてゐる。私は本來ならばその事を素直に慶賀するべきはずである。

なのに私の内心を正直に白状すれば、不愉快千萬といふやつなのである。破格の入門書たる『保守とは何か』を書いた浜崎洋介氏の解説にはかうある。

「そして、回り道の末、ようやく私は福田恆存に出会ったのだった。福田の言葉によつて、これまでの私の彷徨、軽薄、愚行の全てが清算されていくのが分かった。自分の輪郭が書き換えられていくことが分かった」(同書 P.378)

まるでサウロがパウロに囘心した場面のやうである。
私はかういふ言説を聞かされると途端にその人物に對して拒絶反応が出る。

或る人が今までの己の思想と動作を一切克服整理するのを清算といふのである。
そんな事がどうして只の人間如きが出來るのかと、私は思はずにはゐられないからである。むしろそれは、悟つた振りをして他人を氣樂に論ふ特權を享受しようと目論む事であり。清算などでは無く日本古來からある佛教理解の典型に囚われた證據ではないかとすら思ふのである。そして私の疑惑は解説の最後で確信になつたのである。

「福田恆存が亡くなってからおよそ二〇年、戦後日本を跋扈した軽佻浮薄な「主義」達が過ぎ去り、ポスト・モダニズムの浮かれ騒ぎもようやく落ち着いた現在、静かに、そして孤独に、福田の言葉に耳を傾けられる時が来ているのだと思う。来たるべき新時代の未知なる地平など信じる必要はない。確かなのは「私」の歩幅だけである。このアンソロジーが、そんな時代の「今」を支える「過去」からの言葉になることを願っている」(同書 PP.394~395)

かうした物言ひこそが、福田恆存が嫌つた、戰後の輕佻浮薄な「主義」に他ならない。
かつて福田恆存は「近代日本智識人の典型清水幾太郎を論ず」に於て以下のやうに述べてゐる。

「私の言ふ「戰後の風潮」の際立つた代表者の一人である清水氏に私と同じ事が言へる筈が無い。假に言へたとしても、同じ事なら讀む必要は無いし、同じ事が言へる樣な風向きになつたからそれに唱和するといふのが私の嫌ふ「戰後の風潮」であつて、それなら讀まづして批判的にならざるを得ない」

つまり、浜崎氏の言説は、恐らく私の同學年らしくソビエトロシアと東歐圈の崩潰、ポストモダンとやらの退潮を舞臺の袖からじつと見つめて、滿を持しての御登場と云ふ奴で、その遣口は清水氏と瓜二つの有樣である。そんな人物が孤獨とか靜かにとか言ふのは下手な芝居に他ならない。はつきり言ふが浜崎氏は清算などしてゐない。それは以下の對談を見ると分かる。

http://culturestudies.jp/interview/vol03/04.html#.UwBYSd6CheU
「そういう意味でいうと、たとえば、福田が「近代日本知識人の典型清水幾太郎を論ず」という批判文を書いていますが、まさに、近代日本知識人の「典型」というのが重要で、あそこの清水幾太郎は代入項で、実のところ、柄谷でもいいし、宮台でもいいし、もちろん浅田でもいいし、と僕は思っているんですね」

私は、この代入項に先づ何より己自身を入れ無い、總ての人の清算などは信ずるに値しないと考へてゐる。近代日本智識人の批判文に對して眞先に己を當て嵌め、己自身が發する不愉快な生態を直視しない脆弱な精神に一體何が出來るといふのだらうか。

さういふ人は、福田恆存を己自身の「自己防衞→自己正當化→自己劇化→身元證明」といふ一連の便利極まる道具として愛用してゐるに過ぎない。何も浜崎氏に限らない、只今の智識人といふ存在は、自らの紋切型を隱すのだけは長けた悧巧者が溢れてゐるのである。その遣口も戦後直ぐの反省とらやの禊と同じで何の事は無い、衣の下から鎧が見へると言ふ奴である。

飽く迄己の正當化のための論理に拘泥し、歪んだ權力慾を持つものが、揃ひも揃つて福田恆存の言葉を切刻んで、姿拜借する姿は、私には出來の惡い緞帖芝居を見せられる不愉快さを覺えずにはゐられないのである。

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